そもそも国家とは何かという問題から考える必要がありそうですが、国家というものも所詮観念にしか過ぎません。所詮というと何だか語弊がありますが、国会とか官庁とか裁判所とかという組織や制度、それを支える様々な法律やシステムなども、組織論的には観念共認の産物です。勿論、国旗があったり、国歌があったり、国家を連想させるような国家施設があったりしますが、国家というものは、物質的実体ではなく、あくまで国民の頭の中にある観念です。国家論というと何だかややこしそうな話ですが、国家も所詮観念の産物であって、観念の内容を変えたら国家の在り方もごろっと変わるものだという視点が先ず大事ではないかと思います。
国家の起源には諸説があるとは思いますが、国家は観念である観点から言えば、単位集団の共認統合の限界を超えるために「国家」という観念が必要とされたのだろうと思います。観念機能が共認機能の限界を超えるために生み出された人類の最先端機能であるとすれば、共認統合を超える集団の統合様式が観念統合によるしかないのは組織論的必然です。
略奪闘争によって単位集団の本源共認が破壊されましたが、組織統合は集団にとって絶対課題であり、共認統合に変わる統合様式を生み出さなくてはなりません。しかも、略奪闘争を制覇してゆく(略奪闘争という同類圧力に適応してゆく)ためには、単位集団を超えるより大きな集団を統合し、力の強大化を図る必要があります。そこで生み出されたののが「国家」という観念なのではなかろうかと思います。
(果たして、最初に共認されたのが「国家」という概念であったかどうかは分かりませんが、国家の成立起源を説明する理屈として王様が神格化されたり、さらには神格化を根拠づけるために神話が持ち出されたりするところから考えて、集団を統合するために何らかの(共認を超える超越的な)観念が持ち出されたのは間違いないのではないかと考えます。)(続く) |
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