プーチンが政界の表舞台に出てくる直前〜現在までの動きをわかりやすくまとめているものがあったので紹介します。
プーチンのガチで恐ろしい話を淡々と語る(リンク)より引用
オリガルヒ(ロシア新興財閥)とプーチンの仁義なき政争についてのんびり書いてく。
まずオリガルヒのやばさについて説明していきます。
オリガルヒとは寡頭制(Oligarchy)を語源とし、ロシアが共産主義体制から資本主義体制に移る過程で発生した強力な資金と政治力を持つ新興財閥のことです。共産主義時代のエリート層であるノーメンクラトゥーラが、自由主義に移る過程で暗躍し発生しました。(略)
共産主義下では莫大な利益の出る事業であっても政府が管理していたので、巨大企業や企業経営者で強力な政治力を持つ人物は抑えられていました。しかしその体制がゴルバチョフ時代に変わり始めます。経済が停滞したソ連が自由資本主義体制を導入し、企業を抑えていた制約を外していったのです。(略)
しかしそれまで長い間政府に管理されていたソ連経済界はその運営ノウハウを知っている人物が少なかったのです。しかも共産主義による仕事の分化が定着してしまっていました。ようするに自分の仕事さえやってれば給料入ってくるし、それ以外の仕事やっても金変わらないから他の仕事への知識を持とうとする人物が少なかったのです。よって、ごく一部のいち早く資本主義の性質に気付いた者は他を出し抜き一気にのし上がれたのです。(略)
オリガルヒは基本的に政商(政府(政治)や官僚との癒着(官民癒着)により躍進を遂げた企業グループ)ですが、最初から政治への影響力が巨大だったわけではありません。首脳がゴルバチョフからエリツィンに変わり、アメリカやユダヤが積極的に参入してきたころから変わり始めます。(略)
オリガルヒにはエネルギー関係の人物が多くいます。電力会社やガス会社が力を持つのは日本でもそうですが、ロシアの場合は資源産出国なのでその力は桁違いです。その力を政府が管理していたのですが資本主義体制に移行する際に、まとめてかすめとっていったらこれほどの資産を持つことになります。
エリツィンの時代には共産主義の基盤は揺らぎ、それまでの共産党独裁時代と違い政治闘争がかなり激しくなっていました。そこで彼は支援者を欲するようになりました。
その時に登場したのが自由主義体制で資金力をつけ始めていたオリガルヒでした。
オリガルヒは豊富な資金力をバックにさまざまな事業を展開し、莫大な金以外にも多くの雇用に関係していましたし、なによりも生活の基礎であるインフラを支配していました。彼らの力があればエリツィンはその政治力を保てると思い積極的に繋がりを持ち関係を深めます。当然、オリガルヒは力を提供するだけでなく見返りをもらいます。それこそが政治力でした。
さまざまな政府の役職にオリガルヒの人員が入りこむようになり始めると同時に、オリガルヒは各種情報媒体への影響力も強めます。マスコミを買収し、メディアを支配していったのです。ここでの買収とは裏金とかじゃなく、メディア企業そのものの買い取りです。ここが日本の財閥との大きな違いでもあります。
ちなみにオリガルヒはインフラ、銀行、軍産複合体などを支配していたのでメディア買収でヒトラーの言っていた国の支配に必要なものを全て揃えたことになります。
こんなやつらとプーチンは戦うことになるのです。
もう一度政府管理下に置くことになる共産党の政権奪取を恐れたオリガルヒは、再選を目論むエリツィン大統領と利害が一致し、1996年の大統領選挙において、エリツィンを支持し、再選に大きな貢献をした。特に新興財閥は支配下の各メディアを使ってエリツィン支持の世論形成に大きな役割を果たしました。(略)
彼らエリツィンを中心とした側近集団は、後にセミヤー(Семья:家族の意。俗にエリツィン・ファミリー"Семья"Ельцина)という一大派閥を形成するに至ります
これでだいたいのオリガルヒの説明は終わります。
ここからプーチンはメディア、軍、インフラ、金融全てを支配する者たちから政治を取り戻す戦いを行うのです。しかもソ連の変革期ですから裏金や情報操作といった違法なことはなんでもござれですし、ぶっちゃけた話オリガルヒは暗殺すらしています。そんなこんなでオリガルヒが盤石になり、当然のように汚職と富の独占を行うようになる中、プーチンはエリツィン政権の末期に当確を表してきました。
彼はKGB出身である程度情報機関にコネがある状態から政治に参入しています。しかし彼は政治参加した初期からこのエリツィンに重用されるようになるまであまり過激なことや派手なことは行っていません。オリガルヒや他の政敵からの評価は「おとなしい物静かで有能な人物」と言った程度でした。現在の「強いリーダーシップを持った政治家」というイメージからはかけ離れていますね。
しかしプーチンは大学の論文で「豊富な資源を国家管理下におき、ロシアの内外政策に利用する」というテーマで学位をとっており、かなり初期からオリガルヒとの敵対を予期し、強行に出る機会を狙い猫を被っていたことが分かっています。
1998年5月にプーチンはロシア大統領府第一副長官に就任した。ここでは地方行政を担当し、地方の知事との連絡役を務めたが、後にプーチンはこの職務を「一番面白い仕事だった」と振り返っている。
同年7月にはKGBの後身であるロシア連邦保安庁(FSB)の長官に就任。
この時、ボリス・エリツィン大統領(当時)のマネーロンダリング疑惑を捜査していたユーリ・スクラトフ検事総長を女性スキャンダルで失脚させ、首相だったエフゲニー・プリマコフのエリツィン追い落としクーデターを未然に防いだ。この功績によりプーチンはエリツィンの信頼を得るようになります。(略)
ここから一気にプーチンは加速します。プーチンはエリツィンによって1999年8月9日に第一副首相に任命されると、なんと同日にセルゲイ・ステパーシンが首相を解任されたためそのまま首相代行に任命されます。
化け物だらけのロシア政界のライバルを完全に出し抜き、エリツィンはこの時明確にプーチンを自身の後継者であると表明することになるのです。それからすぐに第二次チェチェン紛争でプーチンは強硬姿勢を貫き、国民に「強いリーダー」のイメージを強烈に、そして一気に広めます。(略)
この時点でプーチンは混乱するロシア政界を完全にリードし、他の政治家と一線を画すようになります。今だから言えますがおそらくオリガルヒはここで判断を間違えたのでしょう。プーチンを「エリツィンと同じように保身のために我々オリガルヒの力を必要とする」その程度の人物であると思い過小評価していたのです。まぁ議員、官僚、軍産複合体、メディア、インフラ、金融を支配していたのですから普通なら慢心ではなく当然の自信だったのでしょうが。
同年12月31日に健康上の理由で引退を宣言したエリツィンによって大統領代行に指名されプーチンの大統領としての、そしてオリガルヒとの戦いが始まります。
Aへ続く |
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