>「権利」と「義務」を二本柱とする実定法のみを法にするのはおかしいじゃないかと私は思うんです。現代にも貫いている「法実証主義」は間違いなくどこか「病」んでいます。一般大衆としての私たちが共通して感じ、認識しているもっと根源的な「規範」「掟」に回帰すべき時が来ているんじゃないかと思うんです。
本来、規範意識→制度だと思うのですが、現実的にはそうはなってないですね。
むしろ、規範意識と法・制度は、反比例の関係にあるのが事実です。
これは何を表わすのでしょう。
自らの日常を省みても、法や制度に頼るのは、相手を信頼していない時(=自分が心を開いていない時)に限られているように思います。
友人との約束事は契約書を交わす事などない、だけど、信頼できない相手ほど何枚にもわたる契約書を確認して逃げ道や救いを法的に確保しておく。
お互いの信頼関係さえ、力による強制圧力を借りなければ成立しないような社会は、やはり「病」んでいるのでしょう。
だから、「法が整備されていて素晴らしい」という欧米賞賛論には、根本的な違和感を持っています。
又、「個人主義が責任意識を確立する」というのが嘘であるということは、「個人主義の確立した欧米ほど法による強制力が絶対的に必要とされていること」、「現在の日本が、個人主義に染まるにつれ責任意識が薄れ、それを防ぐ為には現実的には法や制度による強制しか効を成さないこと」からも分かります。
個人主義など浸透していない未開部族においては、成文化された法がないにも関わらず、己の都合のみに陥るケースが殆どないという現象からも、「個人主義と規範意識とは何の必然的因果関係もないこと」が明らかだと思います。
そして、「欧米人ほど主体性がある」というのにも疑問を持っています。私には、欧米人は、お互いに自らを律する状況判断・価値判断を力による強制圧力に委ね、あとはその範疇で己の自由に振舞うことにのみエネルギー(思考)を費やしているだけのように見えます。
なので、規範意識や責任意識については、よく聞く「自由と責任論」や「自我確立論」のような近代思想には可能性を感じず、未開部族の在り方や共認回路の構造に可能性を感じています。 |
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