皆さんのご意見読んでるうちに、お金を私達ってどう捉えてるんだろう?って素朴に思いました。畑中さんの示された新しいお金感覚にも頷けるし(29210)、でも、自分自身仲間内でお金の話を持ち出すのになんか気が引ける感じもまだ残っている。そこのところがもう少し鮮明になるかと期待して、お金が使われている「ことわざ」を拾ってみました。
そんな中、
>「お金」をいかがわしく使ってきた意識とは、人類が500万年の歴史の中で培った「仲間との一体感」を破壊した、「自分以外は全て敵」という意識なのだと思います。(29076 松尾さん)
その通りや、って思うものがいっぱい目に付きました。
金の切れ目が縁の切れ目
金の貸し借り不和(ふわ)の基(もと)
愛するものに物を貸すな
近い者に金は賃さぬもの
金を貸せば友を失う
金は三欠くにたまる【金は、三つ(義理・人情・交際)を欠くぐらいにしないと、たまらないものである、ということ。】
金は不浄(ふじょう)に集まる
金持ちと灰吹きは溜まるほど汚い
金蘭の契り【金を断ち切るほど堅く、蘭が香るように美しい友情のこと。また、非常に仲のよい親友のこと。】
他にも、ことわざではありませんが、よく大切な物を表現するのに『お金では買えない』なんて表現も使いますね。
正に、人との繋がり、和、友、仲間、といった本源価値に真っ向から対立し、それを破壊するものとしてお金は取り上げられていました。
その他(ついでに挙げれば)、強制圧力を示すものとして、
金が物言う
金さえあれば飛ぶ鳥も落ちる
成るも成らぬも金しだい
金があれば馬鹿でも旦那
先だつものは金
金の光は七光
やや本源風(?)なものでは、
金宝より子宝
金は天下の回りもの
金は命の親命の敵 らがありました。
本源価値を破壊するものとしてお金を捉える観念は、なまじ今私達が求めているものが本源価値だからこそ、まだまだ私達の意識に混濁を伴って(警戒心として)残っている気がします。だから私も仲間内であんまりお金の話題を出したくないのだと・・・。
そういう現状では、人類が培ってきた本源的な意識を概念化して固定化していくこと(29076 松尾さん)と同時に、明確に実情に合わないことわざ(観念)を見直ししてゆくことも必要かもしれません。
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