>これからは金をどれだけ稼いだかだけでなく、その金をどのように使ったのかという消費のあり方も評価の対象に成っていくだろう。
(29283『消費の自由のいかがわしさ。』玉川泰行さん)
お金の「蓄積」と「自由消費」から「利用」へ、言い換えれば、「所有価値」から「利用価値」への転換が起こっているというご意見は、言われてみればなるほどそのとおりの新鮮な視点であると感じます。
企業経営という生産行為の局面でも、このデフレの時代においては、どれだけ資産を「所有」しているかではなく、限られた期間に人、モノ、カネの資産をどれだけ有効に「利用」できるかで企業の優劣が決まる、という状態です。言うまでもなく、認識生産・意識生産においてはなおさらのことです。
また、この「所有価値」から「利用価値」へという構造は、「知」と「認識」の地平でも、類比的に同様のことが言えるように思います。
※参考28902『「認識の利用価値」と「生成プロセスに立ち会うこと」』
従来の「知」は、身分保障の道具となっていたため、供給サイド(知識人他)の「所有価値」に近く、それとは反対に、「現実を対象化する認識」とは、使ってナンボの実際の「利用価値」が要である。
しかし一方で、この「所有の論理」というものは、考えてみれば、非常にやっかいな観念でもあります。「自分の・・・」という所有の論理は、土地や金銭などの「もの」にとどまらず、「他者」(子ども、夫、妻、彼氏、彼女・・・)や「自分という存在」(身体、アイデンティティ、人生、やりたいこと・・・)にも敷衍されているからです。
制度的・観念的に、社会はこうした論理に覆われ、それが個人の権利を保障しているわけですが、一方で、人々を閉塞感や喪失感に追い詰めている構造にあり、実は、皆「自分の・・・」という観念をもてあまし、本当はそんなものをもはや望んでいないのではないか、とも思います。
>子育てを協働しようとすると、きっと「自分の子」という概念を捨てなければやっていけない。
(29013『子育ての位置づけ』吉岡摩哉さん)
上の投稿が端的に示すように、男女・婚姻・生殖という根源的な地平においても、所有の論理はもはや足かせ以外の何物でもなくなってきているように感じます。
こうした「所有の論理」と「自己決定の論理」の桎梏を超えて、本源収束・評価収束に根ざした現実的な「利用価値」「応望価値」を実感できる仕組みが、ありとあらゆる場面で要請されてくるように予感しています。 |
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