未開社会では古くから「踊り」が集団の重要な要素として存在していた。「踊り」は、共同体の「癒やし」であり、日々のさまざまな軋轢や溝を解消する手段でもあった。
彼らは、踊りによって「変性意識状態」となり、神々や精霊と交信し、また、それによって病気を治療することを促していた。
この「変性意識状態」は、「統合失調的状態」に通じるという。
狂気をくぐり抜ける 「<癒し>のダンス」リンクより
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よく、テレビでも、誰かが未開社会の取材に行ったときなど、歓迎の儀式として、夜通し火を囲んで踊るということが行われたりする。これは、あくまで、文字通り「儀礼的」な催しであり、真の儀式をまねた模擬的なものに過ぎない。
しかし、リチャード・カッツ著『<癒し>のダンス―「変容した意識」のフィールドワーク』(講談社)という本は、この未開社会の「火を囲んで踊る」という一見単純な儀式の真の意味を、フィールドワークによって深く突っ込んで明らかにしてくれている。
そこには、人類またはあらゆる文明の、宗教、芸術、医術、シャーマニズムの原点といえるような、多様で密度のある内容が詰め込まれており、改めて驚かされる。また、私的には、「統合失調的状況」と通じる要素が多分にあることにも、注目される。
このフィールドワークは、1968年から、かつてホッテントットと言われた、カラハリ砂漠のクン族に対して行われたものである。ただ、当時、既に西洋文明の流入により、失われようとしていた要素も多くあるという。ブルキナファソのダガラ族のイニシエーション体験を綴った『ぼくのイニシエーション体験』(記事 リンク)とともに、貴重な記録といえる。
この「踊り」は、火を囲んで、共同体の者たちがそのまわりを取り巻き、女は主に歌い、拍手をして盛り上げ、男が踊る、ということを夜通し続ける単純なものである。しかし、それは、「ヒーリングダンス」とも言われるように、多様な「癒し」をもたらす。それは、個々の者の「病気」を治療するというだけでなく、共同体全体の「癒し」でもある。それは、共同体に生まれた、さまざまな軋轢や溝を解消するということも含むのである。
この踊りのもつさまざまな側面は、それぞれに興味深いのだが、ここでは、個々の病気の癒しということと、「統合失調的状況」に通じる要素のみに着目して述べてみたい。
個々の者の病気を治療するのは、特定の「シャーマン」ではなく、踊りの中で「キア」と呼ばれる「変性意識状態」に入って、神々または精霊と交流する「踊り手」である。
「キア」に入ると、普段「見えない」ものが見え、「病者」の悪い部分が見えるようになる。「キア」の状態では、「ヌム」と呼ばれる「霊的エネルギー」が強力に活性化し、これを「病者」に「入れる」ことによって、病気に治癒がもたらされれる。また、そもそも「病気」とは、神々または精霊によってもたらされるものなので、「踊り手」は「キア」の状態で、神々や精霊と交渉して、病気を治療することを促すのである。
しかし、その「踊り手」は、儀式が終われば共同体の単なる一員であり、「シャーマン」のような特別な地位につくこともない。共同体全体が一体となって行う、この「ダンス」という儀式の「場」において、そのような「癒し手」が生みだされるだけなのである。(ただし、資本主義的な交換の原理の導入により、当時既に、報酬をとって治療する治療師も現れてはいた。)
「ヌム」という「霊的エネルギー」は、いわゆる「気」そのものだが、むしろ「クンダリニー」に近いといえる。普段みぞおちと背骨の基底部に宿っているが、儀式の「踊り」の沸騰により熱をもち、上昇して、頭蓋骨の底に達すると「キア」が始まるという。
この「キア」という特別の意識状態、一種の超越的な状態が、「癒し」の重要な鍵となっているわけだが、これには誰もが入れるわけではない。(ただし、クン族では、女の3割、男の7割が入れるようになるという。)そこには、克服しなければならない「壁」がある。「キア」に入る前の段階では、さまざまに強烈な身体的苦痛を伴う。また、「キア」という未知の状態に入ることは、強度の恐怖をもたらす。それは、まさに「死」そのものを意味し、それを超えるには、実際に「死ぬこと」しかないのだという。
(続く)
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