近代市場の拡大
288744 下関戦争を首謀した久坂玄瑞
 
小澤紀夫 ( 40代 大阪 営業、企画 ) 14/03/28 AM01 【印刷用へ
 久坂玄瑞は、幕末の長州藩士。妻は吉田松陰の妹、文。長州藩における尊王攘夷派の中心人物です。下関戦争で外国船への砲撃を初めに実施した経緯には、総奉行の毛利元周(長府藩主)は躊躇しましたが、久坂玄瑞ら強硬派が攻撃を主張し決行と決まったのでした。

久坂玄瑞について調べてみました。ウイキペディア:久坂玄瑞リンクから紹介します。

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長門国萩平安古(ひやこ)本町(現・山口県萩市)に萩藩医・久坂良迪、富子の三男・秀三郎として生まれる。幼少の頃から城下の私塾の吉松塾で四書の素読を受けた(この塾には高杉晋作も通っていた)。熊本に宮部鼎蔵を訪ねた際、吉田松陰に従学することを強く勧められた。久坂はかねてから、亡き兄の旧友である月性上人から松陰に従学することを勧められており、この遊学によって、松陰に対する敬慕がより一層深まった。松下村塾では高杉晋作と共に「村塾の双璧」、高杉・吉田稔麿・入江九一と共に「松門四天王」といわれた。松陰は久坂を長州第一の俊才であるとし、高杉と争わせて才能を開花させるようつとめた。そして、1857年、松陰は自分の妹・文を久坂に嫁がせた。

1861年、松下村塾生を中心とした長州志士の結束を深め、義挙をなす蓄えを作るため、玄瑞は、一灯銭申合を創った(参加者は桂小五郎、高杉晋作、伊藤俊輔、山縣有朋ら24名)。

長井雅楽の「航海遠略策」によって藩論が公武合体論に傾くと、1862年、同志と共に上京し、長井の弾劾書を藩に提出。玄瑞は長井要撃を試みるが襲撃の時機を逸したため、藩に長井への訴状も兼ねて待罪書を提出。京都にて謹慎となる。しかし、桂小五郎らは、攘夷をもって幕府を危地に追い込む考えで、藩主・毛利敬親に対し攘夷を力説し、長井失脚に成功。玄瑞は謹慎中、後に志士の間で愛読されることとなった『廻瀾條議』『解腕痴言』の二冊の時勢論を草し、藩主に上提した。これが藩主に受け入れられ、長州藩の藩論となる。藩論は航海遠略策を捨て、完全に尊王攘夷に変更された。

謹慎を解かれた玄瑞は、早速活動を開始。薩長土三藩有志の会合に出席し、攘夷御下命の勅使を激励する決議をなした。また、9月末には土佐の坂本龍馬、福岡孝弟らと会い、三藩連合で近衛兵を創設する件を議した。10月、玄瑞は桂小五郎とともに、朝廷の尊王攘夷派の三条実美・姉小路公知らと結び、公武合体派の岩倉具視らを排斥して、朝廷を尊攘化した。そして同年10月、幕府へ攘夷を督促するための勅使である三条実美・姉小路公知と共に江戸に下り、幕府に攘夷の実行を迫った。

江戸に着いた久坂は高杉と合流した。高杉は外国人襲撃を画策していたが、玄瑞は、「そのような無謀の挙をなすよりも、同志団結し藩を動かし、正々堂々たる攘夷を実行するべき」と主張し、高杉と斬るか斬られるかの激論となった。それを井上聞多が巧く裁き、結局、玄瑞も受け入れ長州藩志士11名が襲撃を決行することとなった。しかし報せを聞いた長州藩世子・毛利定広や三条実美らの説得を受け中止に終わった。だがその後11名の志士は、御楯組を結成し血盟した。

玄瑞は、長州に招聘する目的で佐久間象山を訪ねるため、水戸を経て信州に入り京都に着いた。1863年1月に京都翠紅館にて各藩士と会合。4月からは京都藩邸御用掛として攘夷祈願の行幸を画策した。幕府が攘夷期限として5月10日を上奏するのと前後して玄瑞は帰藩し、5月10日に関門海峡を通航する外国船を砲撃する準備を整えるため、50人の同志を率いて下関の光明寺を本陣とし、光明寺党を結成した。この光明寺党が後の奇兵隊の前身となる。玄瑞は中山忠光を首領として士卒の意気を高めた。これに藩も加わり、5月10日から外国船砲撃を実行に移した(外国艦船砲撃事件=下関戦争の始まり)。

1863年、八月十八日の政変によって長州勢が朝廷より一掃された。この時、玄瑞は寺島忠三郎と共に鷹司邸内で自刃した。享年25。
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ポイントをまとめると

・長門国の出身ということは、周防国山口を本拠地とする大内氏の地盤であった。この大内氏は九州のうち筑前国までを勢力圏としていたが、後に安芸国の毛利氏に取って代わられた。大内氏は、日本の氏族の一つ。本姓は多々良氏。百済の聖王(聖明王)の第3王子の後裔と称していた。大内氏は田布施に繋がる。
この百済、大内氏から田布施への繋がりは【ブログ】日本を守るのに右も左もない:裏天皇の正体15〜薩長同盟は、ロスチャイルドと手を結んだ百済(長州)+秦(薩摩)の連合では?リンクで紹介されています。大内氏は毛利氏に滅ぼされ、長州藩の上層は毛利家が支配しているが、下層には大内=百済の残党が大量に残っていた。この百済の残党がクーデターを起こし、藩政の主導権を握り、倒幕へと突き進んだのである。

・久坂玄瑞は、吉田松陰の弟子。桂小五郎、高杉晋作、伊藤俊輔、山縣有朋、品川弥二郎ら24名と繋がる。松下村塾はまさにスパイ学校そのもので、優秀な長州侍の多くは、松下村塾の塾生、すなわち工作員やエージェントとして訓練を受けた者たちである。

・久坂玄瑞は、藤原一族である公家の両名:三条実美・姉小路公知と共に江戸に下り、幕府に攘夷の実行を迫った。テロ過激公家ともつながっていた。

・八月十八日の政変時、玄瑞は寺島忠三郎と共に鷹司邸内で自刃した。享年25だった。生きていれば、高杉晋作とならぶ幕末倒幕テロリストになっていただろう。
 
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