ここ最近、ブログ『共同体社会と人類婚姻史』リンク にハマっている。「歴史の勉強が楽しい」からだ。では、なぜ楽しいのか?それは、今現在当たり前のことが、過去では当たり前ではないからだ。
現在と過去の不一致。時間軸はつながっているはずなのに、制度や文化、その他多くの事象がことごとく異なる。こんなことを言うと「そんなの(歴史なんだから)当然じゃないか」と突っ込まれそうだ。が、そう思っている限り歴史の勉強は楽しくならない。現在と過去の不一致に対して「なぜ、変わったのだろう?」と考えてみるのがきっかけ。それを調べるうちに、だんだんと、今現在当たり前のことが当たり前と思えなくなってくる。現在と過去の不一致が、いつの間にか「新しい発見」になる。新しい発見をするのは「楽しい」。結果としてハマる。こんな具合だ。
で、現在と過去の不一致のうち超弩級の不一致、言い換えれば超弩級の「新しい発見」が『婚姻史』だった。これはすごい。本当にすごい。同じ日本なのに、縄文時代と今とでは、婚姻の根本概念から異なる。縄文時代の婚姻は、今現在の社会通念に照らすと、もはや婚姻とは呼べないかもしれない。
婚姻史の勉強を通じて、男性がお嫁さん(女性)をもらう今現在の婚姻制度は「父系制」と呼ばれると知った。一方、縄文時代から室町時代くらいまでは、支配者層も含めて「母系制」であったらしい(=史実では母系制の時代の方が圧倒的に長い)。子を産むのは女性だから、生まれた子が誰の子かは、女性(母親)づたいにたどるのが確実。というか、そうでないと誰の子か特定できないという状態が何を意味しているのかは、推して知るべし、である。
正直、こんなにすごい「新しい発見」が歴史の中に眠っているとは思ってもみなかった。40歳を過ぎようとしている今になって「新しい発見」が出来るなんて思ってもみなかった。もはや、学生時代に歴史の勉強をしてこなかったことを悔やむ気にはならない(婚姻史なんて教科書に載っていない)。今からだっていくらでも勉強できる。追求できる。
「新しい発見」をして目を丸くする。感動する。そしてほどなく、新しい発見と新しい発見の間に関係性があることに気付く。さらに感動して、楽しい(=充足)と感じる。こういった充足体験を積むことが、本来的には『勉強』というのだろう。幼少の時分のどこかに落としてきてしまった素敵な感覚。それを蘇らせてくれた「歴史の勉強」に感謝したい。(るいネットサロンのグループの皆さん、ありがとう)
◆参考(お奨め)記事:
『■再読 日本婚姻史 「弥生時代の父系文化への移行〜父親観念の発生〜」』 リンク |
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