近代市場の拡大
285840 明治からの日本は日本では無い(5)
 
垂心 ( 東京 ) 14/01/05 AM01 【印刷用へ
「維新」と云う幻想(リンク)からの引用続きです。
◎大政奉還(公儀体制)
そして倒幕派がいよいよ決起しようとした時、最後の将軍慶喜は先手を打った。
将軍慶喜による大政奉還と公議体制樹立の奏上である。
大政奉還の上奏文に
「従来の旧習を改め、政権を朝廷へ帰し奉り、広く天下の公議を尽くし、聖断を仰ぎ、同心協力、ともに皇国を保護仕り候わば、必ずや海外万国と並び立つべく、臣慶喜、国家につくすところこれに過ぎずと存じ奉り候」
とあるとおり慶喜は、政権を朝廷に返したのちは、
「広く天下の公議を尽くし」て、天皇の御英断を仰ぎ、諸侯と同心一体となって協力し、彼らと共に我が国を安んじ守りたい、それが自分として国家につくす最大の誠意である、と、公議体制による国家運営を奏上しているのである。
大政奉還と公議体制樹立は、幕末の我が国が採るべき道として最高の政治判断であった。
なぜならそれは、幕府の政権を朝廷に返し、朝廷の下で上下両議会を設置して、議会もしくは行政府の長が、天下の公論を以て政治を行うことであるから、倒幕派は名目を失い、戦乱を避けて平和裏に新しい政治体制に移行できるからである。
この場合の上下両議会とは、当時の概ねの議論では、上院が諸侯を議員とするもの、下院が藩士の中から有能な人物を議員とするものであり、一般庶民まで下院に登用すべきとする議論もあった。
新体制に参加することを余儀なくされれば、海外勢力を牽制しつつ、その中で薩長の不満に対して何らかの対策を講じることも出来る。
そして大政奉還は実行され公家、長州、薩摩ら、倒幕勢力はクーデターの名目を失い、初代将軍家康以来政権を担い、統一国家「日本」の礎を築いた幕府は終焉を迎え「公儀政府」となった。

ここまでのスローガン

公儀政府= 尊皇+攘夷の為開国
天皇= 公儀+攘夷

新長州= 倒幕+開国
新薩摩= 倒幕+開国
 公家= 倒幕

しかし、新長州、新薩摩、過激公家のテログループは表向きのスローガンとして「尊皇攘夷」を掲げ、情報工作した。

○1868年 倒幕の密勅、王政復古の大号令

倒幕の動きは、これまでのテロ活動とは打って変わり変わり、大規模な反乱計画となっていた。
最後の将軍慶喜が「大政奉還」をしたその頃、朝廷から薩長に「倒幕の密勅」が下った。
これは岩倉具視・大久保利通・西郷隆盛らの姦計で、前大納言・中山忠能、前大納言・正親町三条実愛、権中納言・中御門経之らに出させたものであった。
この「密勅」は、幼帝のまったく関知しないところで作成された即ち「公文書偽造の偽勅」である。
慶応3年12月9日、岩倉具視や大久保利通らは武力クーデター計画を進め、佐幕派の摂政・二条斉敬や賀陽宮朝彦親王らを排除し、御所を包囲制圧し明治天皇の掌握した。
この時岩倉具視の主導のもとに発令されたのが「王政復古の大号令」である。
これは「王政復古」と言いながら天皇には実権を渡さず、摂政・関白などの伝統的な上級公家を排除し、天皇親政の名の下、岩倉具視一派や薩長のテロリストらが主導する新政府樹立宣言であった。
そして小御所会議にて徳川家廃却の為「辞官納地」を決定。

その頃最後の将軍慶喜は近代化された旧幕府陸軍五千余人、会津藩兵二千余人、桑名藩兵千余人、その他あわせて一万余人の大軍を率いて二条城にいたが、薩・長・芸の藩兵が続々と入京し京都は一触即発に状態となった。
将軍慶喜は偶発戦争を回避するため大阪へ拠点を移し、江戸へ旧幕府陸海軍の精鋭部隊の来援を命じ軍事的優位を確立する。
のみならず小御所会議での決定に反撃に出る為、外交面でも手を打った。
英・仏・米・蘭・独・伊の六ヶ国の行使を引見し正論で小御所会議の決定を非難し、徳川政権の正統性を諸外国に認めさせ、逆に岩倉具視や大久保利通らを追い詰める。
国際社会から認められた政権が正統政権である。
こうして将軍慶喜は政治的挽回を果たし、巻き返しに成功した。
しかし・・・ここで岩倉具視のクーデターを鎮圧することが出来れば、歴史はまだ修正出来たのであろう。

○同年、鳥羽伏見の戦い

将軍慶喜の大政奉還によって武力倒幕の名目を失った西郷隆盛は開戦の切っ掛けを作る為、江戸で薩摩のテロリストたちに無差別テロを繰り返させ、幕府を挑発し続けた。
ここへ来て今まで海外勢力が迫る中、同じ日本人同士が血を流す愚を避けようと隠忍自重し、我慢に我慢を重ねた将軍慶喜も幕府も遂に堪忍袋の緒が切れた。
幕府は江戸薩摩藩邸へ総攻撃、焼き討ちにする。

そして将軍慶喜は明治天皇を奪回する為に京へ軍を進め、そこで戊辰戦争の緒戦となる「鳥羽伏見の戦い」が発生する。
滝川具挙率いる幕府軍、「討薩表」を朝廷へ奉上の為鳥羽伏見街道を進発。
薩摩軍に行く手を阻まれ、押し問答の末戦闘開始。
会津藩兵大活躍するも形勢不利の為、滝川隊退却。

これに対して幕府軍は近代化された幕府陸軍を投入。砲兵隊からの支援砲撃を受けた幕府精鋭部隊、善戦し敵中深く突入。
幕府軍有利であったが、この時、
テロリスト側薩長陣営に「錦の御旗」が翻った。
戦況は逆転し幕府軍総崩れ。
敗退・・・。

なぜ幕府軍は、一万五千対五千、三倍近くの兵力を持ちながらこの戦いに敗れてしまったのか。
本来、正規軍によるテロリスト討伐戦だった。
武器の差が、三倍の兵力差を凌いだのであろうか。
いや、その原因はテロリストたちが掲げた天皇の「錦の御旗」である。
つまりクーデターによって無理矢理身柄を拘束されていた明治天皇が、今度はテロリストたちを正規軍だと認め、正規軍であるはずの幕府軍を賊軍とみなしたということである。
「明治維新」は、ここに完了した。。。

将軍慶喜は徹底抗戦派らの意見を抑え、上野の寛永寺に入って謹慎恭順に踏み切った。
こうして政権はテロリスト側に移った。
抗戦派が主張するように幕府が総力を挙げて戦えば絶対に負けなかったろう。
そうなれば外国勢力も介入した激しい内戦となり、どちらが勝っても壊滅的被害が出たであろう。
それが将軍慶喜は良く分かっていた。
この時点でのスローガン
明治新政府= 開国(殖民支配受容)

つづく・・・
 
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