日本は母系文化社会だった。
そして、明治時代まで庶民は(武士社会は除く)母系文化の中にいた。
だから、江戸時代まで日本では地域特性や生産様式によって、多彩な婚姻様式を持っていた。
その一つが、「入婿」の婚姻制度である。
他の血が混ざる「入婿」など許されない儒教文化や、家族構成は神が創るものなので「入婿」など許されないキリスト文化。
それに比べて、生産手段を持った共同体が機能しやすいように、多彩に婚姻形態を適応させていた日本。
ウキペディア「入婿」の内容が面白いので紹介します。
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『入婿』(ウキペディアより)リンク
入婿(入り婿、いりむこ)は、男性が配偶者側の家名あるいは家督を継承すること、またその男性。婿養子とも言うが、そちらでは明治時代に制定された民法における旧規定を説明し、本記事ではそれ以前の歴史的な事柄を対象とする。
主に日本における風習であり、本来何の関係も持たない男性(傍系血族の場合もある)が、名実ともに配偶者である女性の実家の一族に組み込まれるという風習は、他国ではあまりない。
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養子という義理の関係が実子と同等に見なされるのは中華文明圏の風習で、ヨーロッパなどにはない
(キリスト教では神以外の者が親子関係を勝手に作るのは冒涜と考えられた。キリスト教化以前の古代ローマではそうした形の養子が行われている)。
一方、中華文明圏では宗族の概念が強く、他姓の者を養子にすることは少ない。
母系制社会であったとされる日本など、少数の民族のみが持つ風習である。
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◆家制度、家督の概念ができると、養子の一形態として行われるようになった。
戦国時代には立花宗茂や小早川隆景など多くの例があり、江戸時代においては武家のみならず商家、農家においても一般的に行われた。
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■入婿の事例と背景
ごく最近まで入婿が頻繁に行われていたのは、三重県沿岸地帯の海女集落や、岐阜県白川郷の養蚕家、江戸時代の大坂の商業街船場に住む大商人たちであったとされている。
特に商家の入婿は近世文学の世界ではかなり頻繁に登場する存在で、上方で発展した人形浄瑠璃や和事を中心とした歌舞伎にその生活が描かれている。
彼らの家に男子が出生しなかった場合(あるいは後継者として不適格な男子であった場合)、当主は多くの使用人のうちから人格、素行、能力などの優れた若者を選んで娘との縁談を持ちかけ、2人の承諾を得たら長女の配偶者として自分の一族に彼を迎え入れ、優秀な後継者を得ていた。
また、男子のいない家の場合は長女が選んだ男性をそのまま入婿として迎えることもあった(そのような場合、保険として次女以下に優秀な男性を配偶者として迎え、支店を任せた例も散見される)。
当主が次々と他家から入ってくるため、大阪の旧家には「女紋」といって女系で継承する家紋を持つ家もある。
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海女集落や養蚕集落の場合、一家の主な働き手は女性であり、娘を嫁に出すと貴重な働き手が引き抜かれてしまうため、慣習的な入婿制度が必要とされたと思われる。
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一般的に行われていた時代、入婿は人格・能力ともに優れた男性、または魅力ある男性というイメージが強く、格下の出身から豊かな家を継ぐため「男の夢」と見られていたが、「米糠(こぬか)3合あれば養子に行くな」という格言があるように、養家では肩身のせまい存在になることも多かった。これは、女性の嫁入りが「女の夢」とされたものの、嫁ぎ先で立場が弱くなることも多かった事実と類似している。
一方で、岩手県、宮城県、秋田県など東北地方を中心に、男女の別を問わずに第一子が家産を相続する慣行が見られたことが、中川善之助により紹介されている。この場合、第一子が女子で弟が後で産まれても、長子である女子が家督を相続し(姉家督)、迎えた入婿が戸籍上の戸主となった。弟は分家を新たに立てるか、他家へ養子にいくこととなる。明治時代中期までは多くの事例が確認できたが、以後は姿を消した。
・・・・・・・・・・・・・以降 省略・・・・・・・・・・・
<以上 引用> |
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