子供のお稽古ごとや早期教育が流行ってきたのは、息苦しさから解放されたいという母親が増えてきたからである。少なくとも、そういう機関に子供を預けている時間だけは、母親が子供から解放されるからだ。
しかし、そういう早期教育は、本人の能力を高めるよりも、ストレスを加速させる。
幼少期に必要なのは遊ぶ脳をつくることだ。
『なぜ、その子供は腕のない絵を描いたか』(詳伝社) Campingcar Super Guide ひとくちJournal「vol.004 子供が野外で遊ぶことを禁じる母親たちの出現」(リンク)より引用
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<幼児からの早期教育は何をもたらしたのか>
子供のお稽古ごとや早期教育が流行ってきたのも、こういう息苦しさから解放されたいという母親が増えてきたからである。少なくとも、そういう機関に子供を預けている時間だけは、母親が子供から解放されるからだ。
しかし、そういう早期教育は、子供の立場から考えて本当に意味のあることなのだろうか。これにはいろいろな疑問が出てくる。
今は0歳から幼児を教育するような様々な教材が出回っている。絵や文字を書いたカードを見て瞬間的にいいあてるフラッシュカード。英語の子守歌のテープ。家具屋や電化製品にアルファベッド、カナなどを貼って言葉を覚えさせるネームプレート。
多くの親たちは、他人の子より早く教育すれば、それだけ自分の子供の受験や進学が有利になると信じ込んで、そういう教材を積極的に家庭内に採り入れている。子供が5歳ぐらいになると、英会話、ピアノ、バレーなどの教室に通わせる親が多い。
しかし、そういう早期教育を疑問視する声が今高まっている。幼児の早期教育は本人の能力を高めるよりも、ストレスを加速させて、という見方すらある。
子供には、これらの早期教育を拒絶する力はない。それを負担に思っても、なかなか表現するすべを知らない。だから、表面はニコニコ顔でお稽古ごとに通っている子供が、実はその内面にとんでもないストレスを溜め込んだとしても、親はそれに気づくことができない。
1960年代にアメリカで動物を使った認知実験が行なわれたことがあった。その実験から、電気ショックを動物に与え続けると、動物はショックを避けられないものとして「学習」してしまうことが分かった。そうなると、動物は逃げられるにもかかわらず、じっと耐えてしまう。これを「無力感の学習」という。
これは人間の子供にもあてはまる。つまり、自分の許容範囲を超えた課題を与え続けられると、子供は無力感を学習して、黙って耐えながらその課題を心のなかで無視しようと努める。そうなると、幼児期にせっかくお稽古ごとを学ばせてもそれがモノにならないどころか、小学校にあがる頃には、周りの世界に対する好奇心や、新しいものにチャレンジする情熱なども失ってしまう。
絵を描かそうとすると、すぐ「疲れた」という子、「肩が凝るから嫌だ」と拒絶する子など、無気力な子が増えてきた背景には、早すぎた幼児教育が影響していることも十分に考えられる。
昭和30年代の小学校1年生と現在の1年生を比べると、入学時における学力は、平均すると圧倒的に今の子の方が高いという。しかし、小学校を卒業するときの学力を比べると、逆に今の子の方が低いのだそうだ。そのことから、幼児教育がいかに効力がないかがはっきりする。
専門家は、「むしろ就学前には学力などつけない方がいい」という。3歳ぐらいまでは、学習する能力ではなく、別の脳をつくる時期だからだそうだ。
<個人の早期教育よりは仲間との遊びが大切>
この時期に必要なのは遊ぶ脳をつくることだ。
2〜3歳ぐらいになると、子供は「見立て」遊びをするようになる。例えば積み木を自動車に見立てたり、大きなぬいぐるみをお母さん、小さなぬいぐるみを赤ちゃんに見立てて遊ぶ。これは初歩的な遊びかもしれないが、目前にないものを想像する力を養う上できわめて大切な遊びだ。
こうした遊びがグループで行なわれる場合は「ごっこ遊び」へ進化していく。大きなぬいぐるみをお母さんに見立てるということが、グループ内での共通の認識となれば、そこに「象徴を共有する」という体験が生まれ、それが対人関係を築いていくうえでの大きな力となる。子供たちはそうやってコミュニケーションの基礎を学んでいく。
しかし、2〜3歳の時に親が早期教育に力を入れすぎると、このような遊びの場を子供たちを奪ってしまうことになり、子供は遊びを通じて養うことのできる想像力や他者との交わり方を学べなくなってしまう。
何もしていない時間を、人々は退屈でヒマな時間だとする。今の子供や若い世代は、そのヒマや退屈をことのほか嫌う、というより恐れている。とにかく何かやっていないと、自分が保たれないように見える。
その理由はやはり、隙間時間のない、忙しい日々を子供のころから送ってきたからに違いない。
現代の子供や若者は、退屈を経験しないまま成長する。彼らはテレビもビデオもなく、コミックもゲームもケータイもコンピューターもない時間というものを知らない。自分しかいない時間というものを経験したことがない。もし彼らにそんな時間を与えたら、彼らの精神はきっと1時間ももたないだろう。
しかし、退屈はひとつの知的な体験である。それは頭脳活動の停止ではなく、むしろ本質的な活動が開始されているときなのだ。手元にゲームはおろか、本も紙も鉛筆さえないとき、それを乗り切るのは空想を主とした想像力である。
この想像力が豊かになればなるほど、一つの出来事を多面的に捉えられることができるようになり、自分を取り巻く世界が面白いと感じられるようになる。そういう思いが他者に対する好奇心となり、優しさとなる。
しかし、今の子供たちは退屈を恐れるあまり、みずからつくり出した空想に馴染むことがない。彼らがイメージする世界はだいたいコミックやゲームやテレビといった借り物の映像によって出来上がっている。この想像力の貧困は生きていく上で、このうえなく困難な状況をつくりだす。
今小学校では、新入生が入ってきてからの最初の一学期は、まず授業にならないという。席に着かせ、静かにさせるだけで1時限が終わってしまうのだという。みな空想する力が弱くなっているから、教師が目の前で掲げる教材や黒板の文字に興味を持つことができない。黒板の文字は、テレビで見たように急に変形して他の文字に変わったり、蛍光色を帯びて輝いたりしない。そのような変化に乏しい世界は、貧困な想像力しか持たない現代の子供たちの関心をつなぎとめておくことができない。
このような、想像力の貧困を生んでいる原因には、子供たちが共通して遊べる場の消失、スキンシップの名を借りた圧迫育児、さらに不必要な早期教育などの問題が横たわっている。
子供は手をかけるほどいい子に育つというのは、幻想にすぎない。
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