邪馬台国が朝鮮半島にあったとすると全てに説明がつく。「邪馬台国論争終結宣言」の山形氏とは別のアプローチで論理展開されているブログを紹介します。
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邪馬台国論争の真相 古事記、日本書紀に卑弥呼も倭国大乱も記述がない理由
暁 美焔(Xiao Meiyan) 2012.12.22
未だに解決しない邪馬台国と大和朝廷との関係。現状のどの説も魏志倭人伝への次の疑問に答えていない。
南に邪馬台国の女王の都まで水行10日、陸行1月は方角、行程共に不自然ではないか?
南に投馬国に至るには水行20日とあるが、南に船で20日行く場所など見つからないではないか?
女王国の東海上千余里にある倭種の国を説明できないではないか?
その南の女王国から4千里、と方角と距離が具体的に記述された侏儒国(小人の国)など全く説明できないではないか?
東南水行1年の裸国、黒歯国も、全く説明できないではないか?
これらの問題を全て解決し、邪馬台国論争の真相に到達した。
1. 倭人伝の日本海呼称問題
東沃沮(よくそ)は北朝鮮から沿海地方のあたりに存在した国家である。あまりなじみの無い魏志東沃沮伝であるが、実は非常に興味深い記述がある。
中国人は当時「黄海」の事を「大海」と呼んでいた。では、「日本海」の事を魏志東夷伝ではどのように呼んでいたのであろうか?これこそが日本海呼称問題の原点だ。
「東沃沮は高句麗の蓋馬大山の東に有り、大海に沿って暮らす。」
答えは「大海」である。さらには次のような記述もある。
「海東にも人がいるかどうかを古老に問う。古老が言うには数十日流された漁師が島に上陸すると言葉が通じなかった。そこでは7月に童女を海に沈めると言う。また、海中に女だけで男はいない国が有ると言う。」
この海の先に何があるか。誰も知らないので古老に聞いてその伝承を記したのだ。日本海を単に「大海」と呼んで特別な呼称を使用しなかったのは、要するに日本列島の存在など知らなかったからだ。
「倭人は帯方郡の東南の大海中に在り、山島に依りて国邑を為す。旧百余国。漢の時朝見する者有り、今、使訳通ずる所三十国。」
有名な倭人伝の冒頭のこの一文は現代人の感覚で読めば間違いなく日本列島に関する記述だと考えるであろう。しかし、当時の地理認識では「大海中の山島」に相応しい場所は他にもある。中国人が日本列島の存在を知らなかった以上、むしろそこしか無い。東西も南も「大海」に囲まれた山と島、それは朝鮮半島だ。このような説は詭弁だとか暴論だとか思われるかもしれない。しかし日本列島を「大海中の山島」と呼ぶためには実は日本列島の存在だけでなく太平洋の存在までも知っていなければならないのだ。海東に何があるかわからない状況で、南方だけは太平洋まで知っていたという可能性があるだろうか。仮に知っていたら黄海や日本海を「大海」と呼ぶだろうか。太平洋や日本列島の存在を常識としない古代中国人の感覚で読めば、「大海中の山島」は朝鮮半島しかない。
邪馬台国に相応しい土地を地図上で探してみよう。邪馬台国が存在したのは、そこから東方海上1千余里に倭人の地がある場所だ。そのような場所は一ヶ所しか存在し無い。それは朝鮮半島南部であり、東方海上の倭人の地とは対馬の事である。事実上の首都だった伊都国は後の王朝の首都があった開城か漢城付近と考えるのが自然だろう。南に邪馬台国の女王の都まで水行10日、陸行1月は方角的に正しいし、行程にも合理的な説明が与えられる。朝鮮半島西南を回るよりも早いためか、西南部は敵対勢力に支配されていたのだろう。南へ水行20日の投馬国に対応する土地も確かに存在する(伊都国からの道程は放射説を仮定している)。対馬の南の女王国から4千里の場所には縄文人形態の低身低顔型人種が住んでいた壱岐島(資料1)があり、侏儒国に相応しい。東南に水行1年の裸国、黒歯国が何を意味するかは言うまでも無いだろう。倭人伝の記述と何もかも一致するばかりでなく、金印が出土した博多(志賀島)が倭人の極南界であるという認識については考古学と文献が完全に一致する。
百済と高句麗を滅亡させて朝鮮半島を統一した新羅は、長い間「倭」の属国であった。新羅人とその末裔は、統一しても滅亡させられなかった倭人への怨念を受け継いで、現在にいたるまで対馬海峡の向こう側を「倭」と呼び続けて嫌悪し続けた。こうして、いつの間にか「倭」は「日本」を示す言葉に変わってしまったのだろう。
引用終わり
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