もはや学校は終っている
279713 子どもに算数をどのようにして教えるかということは、道徳教育の問題なのである〜シュタイナー教育における算数〜
 
ばんび ( 24 京都 経理 ) 13/07/31 PM03 【印刷用へ
278346278348278585278590でも述べられていますが、シュタイナーは教育というものを現代の教育とは比べ物にならないほど広く、深くとらえていました。そんな彼は、算数の教授法は道徳の問題だといいます。

以下、雑念する「からだ」(リンク)より引用します。

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ずいぶん前にも取り上げたけど、たとえば算数の教授法についてシュタイナーはこんなことを言っている。

『単 に論理的ではなく、いきいきと考察する者には、「正しい方法で算数を学んだ子どもは後年になって、正しい方法で算数を学ばなかった子どもとは、まったく異 なった道徳的責任感を有する」ということが明らかになる。これは多分、非常に逆説的に思われるだろう。しかし、私は現実について語っているのであり、空想 を語っているのではない。
…中略…子どもに全体を把握させて、常に少数から多数へと進んでいかなくてもよくさせる。そうすると、子どもを生活に近 づけることができる。これは、子どもの心魂のいとなみに非常に強い影響を与える。数を足していくことに子どもが慣れると、特に貪欲に向かう傾向が発生す る。全体から部分へと移行し、適切に掛け算も行なうと、子どもはあまり欲望を発展させず、プラトンが言う「慎み深さ」を発展させる傾向を得る。計算をどの ような方法で学んだかに、道徳において何を好み、何を嫌うかが内密に関連しているのである。』
(『シュタイナー教育ハンドブック』ルドルフ・シュタイナー、風濤社、2007、p57−58)

「子どもに算数をどのようにして教えるかということは、道徳教育の問題なのである」とシュタイナーは言う。
はたしてそんなことを考えて算数の教授法を組み立てる人が、他にいただろうか。
シュタイナー教育をご存知でない方もいると思うので少しだけ触れておくと、シュタイナー教育では、子どもに加減乗除を教えるときに、足し算よりまえに引き算、掛け算よりまえに割り算から始める。
それはつねに「全体から始める」という発想が根底にあるからである。
が、先のシュタイナーの発言を考えると、そこにはもっと深い意味があるようである。

足し算よりまえに引き算を、掛け算よりまえに割り算を子どもに教えていくということは、言ってみれば「全てを足すと1になる」という世界観と出会わせているということなのだ。
「2という数は、1を半分に分けた数である」ということ。
「10という数は、1を10個に分けた数である」ということ。
それは「全てを足すと1つ(全体)になるんだよ」ということを暗に示しているのであり、地球という限られた空間に生活している私たち人間の世界を、それと言うこと無しにまるっとそのまま示しているということなのだ。
「足し算(掛け算)的思考」から世界と出会った人間が、ある意味「無限の欲望」を肯定されるのに対して(足せば足すほどいくらでも増える)、「引き算(割り算)的思考」から世界と出会った人間は、「欲望の限界」を教えられる。
どれほど大量のモノを集めて貯め込んでも、それはあくまで地球全体のカケラであり、どんなに足しても地球一つ分にしかならない以上、人はみんなで分かち合うしかない、ということ。
部分はつねに「全体の」部分であるということ。
非常にシンプルだが強烈な世界観が、計算とのファーストコンタクトの中に潜んでいて、それが後年になって、その子の道徳観に「慎み深さ」としてメタモルフォーゼ(変容)していくと、そうシュタイナーは言うのだ。
すごい話である。でもナルホドのことである。

シュタイナーは「それを子どもに提示すると、子どもの心象にどんな運動イメージが生まれるか」ということを、つねに考えていた。
だから、子どもたちを数字の世界に出会わせるときに、「足し算/掛け算」から入っていくのか、「引き算/割り算」から入っていくのか、そこにどのような運動イメージの違いが子どもの心象に生まれるかを、真剣に考えていた。
「数を足していくことに子どもが慣れると貪欲になる」とシュタイナーが言うように、足し算に熱中していく中で起きてくる感情を言葉にしてみるならば、おそらく「もっと、もっと」というのが近いだろう。
そのエモーショナルな運動が、現代資本主義の土台になっている。

とにかく子どもは、身の回りで起きている運動を丸ごと「食べて」育つ。
子どもが足し算を習っているときは、単なる数字の計算法を学習しているだけでなく、そこで起きている運動を「食べている」のだ。
子どもたちは「学び」を食べ、「遊び」を食べ、「生活」を食べ、「物語」を食べ、そしてそこで起きている「運動」を食べている。
その中で子どもの内的な志向性が育まれていくのだ。
つまり、その子が一生を通じてどんな「運動」をしていくのか、ということが。
だから大人は、「子どもの前でいかなる運動体として目の前に在るか」ということが、つねに問われるのである。
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