私権社会では貧困の圧力が同類闘争圧力を規定しており、略奪集団や企業などの人工集団内での個間闘争が加圧装置として存在した。自分以外は全て敵と言われる由縁である。
しかし一方で貧困の圧力以外に共認不全も同時に孕むことになった。
貧困の圧力が衰弱し、浮かび上がる共認不全を解消すべく解脱仲間は登場したが、解脱仲間による充足も、純粋に脳内充足を貪るための個室化も私権圧力のアンチとして存在するだけで一時的な充足以上の可能性は何も見出せない。
ところが社会不全を対象とした認識闘争とはパラダイム転換を実現する闘争であり、したがって旧パラダイムに固執する観念派も観念を忌避するミーハーも駆逐するだけの敵ではない。社会不全を引き起こす対象そのものであり、最終的には彼ら全てが認識<仲間>に転換するという私権時代にはユートピアのようにほど遠かった社会を実現目標とする闘争なのだ。
考えてみれば、認識や評価を巡る闘争は(評価欠損から生じる若干の自我刺激が伴うが)圧力として存在するだけで、何も同類が啀み合ったり、殺し合うほどの敵対関係になる必要性など全くないという至極真っ当なことであり、したがってその活力もそれを規定する充足度も現代における私権闘争(および付属物である表層解脱)の比ではないのだ。 |
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