>共同体では、まず第一に、自然の摂理に学び、部族の歴史に学び、先人の経験に学ぶことが、根本規範となっている。(256228)
>「民主主義は正しい」と信じ込まされた人々は、『まず学ぶ』という根本規範を踏みにじり、身勝手な要求を掲げて恥じない人間と化す。その先鋒となったのが、金貸しが生み出した共認支配の専門家たち=学者や評論家やジャーナリストである。彼らは現実と直対することから逃げて、もっぱら書物から学んで専門家となった連中である。(256228)
「学び」は私たちの意識や価値観をかたちづけるものであり、「何を学ぶべきか?」その中身によって、社会の役に立てる意識が生まれるのか?むしろ社会の弊害にしかならないのか?その分岐点となる重要な選択です。
社会の役に立つ活きた「学び」とは、上記の文章にもあるように、歴史的な外圧状況⇒適応過程の進化の積み重ねと、そこから生まれた先人たちの原理や知恵(経験)です。
@かつての外圧はどのようなものであったのか?(歴史的事実)
Aその外圧を突破するための、原動力(活力源)は何であったのか?
Bその外圧を突破するための、成功体験(原理)は何であったのか?
今、目の前にいる先人であれ、今は亡き先人であれ、私たちが学ぶべき対象は上記のような「現実に起こった壁(課題)」をどのように突破してきたのか?という歴史体験とその構造です。
また、「学びの深さ」と、次代を予測する仮説思考の豊かさはおそらく比例していると思います。つまり明確な方針を立案するためには、目の前に起こっている現象だけでなく、近代←人類←生物史に遡って歴史をさらに学んでいくことが、経営者あるいは社会人には求められている能力だと考えられます。
一方で、学校教育を始めとする日本の教育システムは、以下のように、現実とはかけ離れた事象を寄せ集めたものであり、社会を閉塞に追いやった元凶ともなっています。
平等などの現実にはあり得ない近代観念に基づく「国語や道徳」、実際の環境とは切り離された画一環境による実験から生まれた「科学」、支配階級や金融資本家などの支配の構造を隠している「社会」など、都合の良い観念から作られた知識は社会の弊害にしかなりません。
また、受験のための知識の詰め込み教育は、表層的に知識を身につけることであり、社会で必要とされる、ものごとの背景や原理に想いを寄せる能力の弊害にもなっています。
これだけ社会がガタガタになってきている時代の中で、何を学ぶべきか?
私たちは、本気で考えねばならない時機にきていると思います。 |
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