初詣の時や、歴史を遡れば、卑弥呼など断片的には知っているが、以外と知られていない“巫女”について、色んな歴史と関連付け述べられている文献がありましたので紹介します。“巫女”については、残されている文献や記述も少ないそうです。
元投稿のタイトルにもある『原始人類集団のリーダーは、精霊信仰⇒祭祀を司る女であった』258196とあるように、
>我国の原始神道は、原則として、神を祭り神に仕える者は、悉く女性に限っていて、男子は全くこれに与ることが出来なかったのである。
>巫女が政治の中心勢力者であった
>巫女それ自身が直ちに神であり、且つ巫女の最高者が主権者であったからである。
(下記、文献より)
とあります。
日本巫女史/総論/第一章/第二節
リンク より、抜粋・転載します。
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三 巫女史と政治史との関係
我国に関する最古の文献である魏志(巻三〇)の「倭人伝」によれば、倭国の主権者であった卑弥呼(ヒミコ)なる者は『克事鬼神惑衆』ところの巫女に外ならぬのである。此の点から言えば、倭国の原始文化は、巫女によって代表され、呪術に精通したものが、一国の支配者としての、機能を有していたのであって、即ちフレザー氏の帝王の魔術的起原(マジカル・オリジン・オブ・キングス)の学説を事実において証明しているのである。而して、斯くの如き事象は、独り倭国ばかりでなく、我が内地にあっても、又明確に認められるのである。国語の政治を言える「まつりごと」が、祭事から出発している事を知るとき、古く我国が祭政一致であったことを覚ると同時に、巫女が政治の中心勢力者であったことを併せ考えねばならぬ。何となれば、我国で「まつりごと」の国語を生んだ時代にあっては、巫女それ自身が直ちに神であり、且つ巫女の最高者が主権者であったからである。
巫女史の立場から言えば、神璽と共殿同床した時代までは、巫女が政治の中心であったと考えることが出来るのである。然るに、政治と祭祀とが分離し、神を祭る者と民を治める者との区別が国法的に定められ、神それ自身であった巫女が一段と退化して、即ち神子(ミコ)(神の子の意)として、神と人との間に介在するようになっても、猶お神託は、往往にして政治を動かす勢力を有していた。これ等に就いては、各時代において、例証を挙げて、詳記する考えであるが、巫女史と政治史との関係は、決して浅少なるものではないのである。
四 巫女史と祭祀史との関係
我国の原始神道は、原則として、神を祭り神に仕える者は、悉く女性に限っていて、男子は全くこれに与ることが出来なかったのである。天照神が、我国の最高神でありながら、天神を祭られたのは、女性であった為めである。神武朝に、道臣命が勅命によって神を祭るとき、厳媛の女性の名を負うたのも、これが為めである。崇神朝に、皇女である豊鍬入媛命が神の御杖代となられたのも、又女性であった為めである。今に男子が特殊の神事を行うとき、女装するのも、此の古き原則を守る為めである。而して、女性に限って、神を祭ることを許されたのは、我国の原始神道が、一面巫女教であったことを意味していると共に、一面神を祭る者は、悉く巫女としての資格を有していたことを意味しているのである。然るに、時勢の暢達は、漸く神の内容に変化を来たし、神道が固定するようになったので、神主、祝、禰宜等の男性神職を出現させ、巫女の手から祭祀と神事の機能を奪ってしまい、ここに主客位置を代えて、巫女は下級の神職、または補助神職か、員外神職の如き待遇を与えられるに至ったのである。併しながら、巫女教であった原始神道の伝統は、神道が神祇官流に解釈され、更に神社神道から国体神道とまで発達しても、猶お且つ巫女なる者を泯滅することが出来ず、今にその面影を留めているのである。
巫女は祭祀としての葬儀史にも、亦深甚なる関係を有しているのである。仏教の渡来せぬ以前——即ち、我国固有の信仰と、祭儀とを以て、死体を葬り、死霊を祭るには、専ら巫女がその任に当っていたのである。神職の一つである祝(ハフリ)の語原は、死体を屠(ハフ)るを職とせし為に、葬(ハフ)りとなり、更に祝(ハフリ)となったことを知り、然も此の祝(ハフリ)が、元は巫女の役であることを知るとき、葬儀史における巫女の務めが、如何に重大なるものであったかを考えずには居られないのである。
(以上、抜粋・転載終わり) |
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