日本人の起源(縄文・弥生・大和)
266129 儒教の伝来〜王仁と五教博士〜
 
彗星 ( 中年 ) 12/07/03 AM02 【印刷用へ
 百済の会アカデミー:歴史講座「百済と百済王」「第2部百済とわが国との関係―渡来人、王仁と継体大王―」(リンク)より、儒教がどのように日本に入ってきたか?ピックアップしてみます。
前掲の記事では、日本の応神天皇が、百済王から使わされた阿直岐(アチキ)が経書をよく読むので、その教養の深さに惚れ込んで、太子の菟道稚郎子の学問の師としたようです。応神が阿直岐に「お前よりすぐれた学者がいるか」と問うと「王仁とうすぐれた人がいる」と答え、王仁が遣わされてくるのが儒教伝来の始まりとのことです。
この阿直岐は阿華王の弟、直支と同一人物ではないかという説もあるよようです。百済の阿華王は、対新羅戦略として倭と同盟を結ぶため、人質として弟の直支(トキ)を倭に送っていたそうで、経書を読む=儒教の五経に通じているということは、当時、最高の教養を持ち、帝王学を学んだ人物であると推測されるようですので、阿直岐(アチキ)は、百済の阿華王の弟、直支(トキ)とも考えられるとのことでした。(直支は阿華王のあとを継いで18代直支王(腆支王)となる人物)

 また、王仁(百済の辰孫王ともいわれる)は、論語十巻と千字文とを携えて渡来し太子菟道稚郎子の師となったといわれます。(しかし、千字文は王仁が渡来した頃にはまだ編集されていないようです)太子は、非常な秀才であって儒教の典籍を完全に読みこなし全てを理解したとのことでした。
 このような帝王学として支配者に儒教が伝わり、その後、日本では、皇統が断絶したといわれる継体天皇の時代に、五経博士が来日して本格的に儒教が伝わります。継体天皇は、かつての安羅ともつながりが強かったとも言われますが、その時代の状況を転載させていただきます。
--------------------------------転載
(1)五教博士
 中国の文字文化がわが国に伝わったのは、恐らく卑弥呼の時代からでしょう。紀元2世紀の頃からだと思われます。卑弥呼は楽浪郡を通じて中国と交渉を持ちますが、楽浪の文化を真っ先に受け入れたのでしょう。「鬼道をよくした」というのは恐らく道教による巫術を身に付けており、中国語に対する素養もかなりあったのではないかと思います。だから中国や半島との交渉は卑弥呼の独占的な役割で、他の男王たちは卑弥呼に頭が上がらなかったのでしょう。巫女としての才能も勿論ですが、語学に強い女性の能力を発揮したのではないかと思います。卑弥呼が亡くなると国が乱れました。と言うことは、楽浪郡との交渉がうまく行かなくなったということでしょう。武力だけでは治まりがつかないのです。そして卑弥呼と同じような交渉能力を持った壱与を立てることになります。

 大陸より文化的にかなり遅れていたわが国では、大陸からの文化を吸収することは為政者にとって必要不可欠な課題でした。応神帝にしても恐らく自らは読み書きが出来なかったでしょうから、皇太子の帝王教育は強い願望だったでしょう。幸い中国文化に教養のある宮内宅姫と結ばれたのですから、その子の菟道稚郎子は幼いときから読み書きの素養があったのです。2人の兄を差し置いてでも菟道稚郎子を跡継ぎにしたかったに違いありません。そして更に磨きを掛けるために王仁を招聘しました。王仁は論語10巻と千字文を持ってやってきました。

 この話を日本の歴史学者は殆ど信用していませんが、菟道稚郎子が実在の人物とすればかなり現実性のある話だと思います。それはわが国の支配階級が大陸の知識を渇望していて、そのことを表している話と思えるからです。この話を、継体大王の五経博士招聘の事実を下敷きにしたつくり話であるとする説がありますが、つくり話にしては出来過ぎているのではないでしょうか。

 継体6年(512)、7年(513)に倭は、百済の要請に従って任那(伽耶)の西部に属する4郡・2県を割譲します。割譲と言ってもこの地が倭の領有地であったわけではなく、百済に対して主張できる何らかの権益を保有していたのでしょう。この権益を百済に渡したということだと思います。百済はこの権益譲渡の代償として五経博士を送ってきます。倭がその派遣を要求したのではないでしょうか。
 五経とは儒教の教典で、易経、詩経、書経、礼記、春秋からなっています。中国では漢の武帝のときから五経を教え文教を司る文官として五経博士を置いてきました。百済でもそれにならって五経博士の制度を置いています。中国の文化を取り入れるために必要な制度でした。倭もまた当時の国際社会で活躍するための手段として中国文化を取り入れざるを得ませんでした。早くから伽耶地域と交渉を持っていた継体は、その必要性に敏感だったでしょう。そして4郡・2県割譲の対価として五経博士の来日を強く要求したものと思われます。
 継体7年に五経博士段楊爾が来日します。10年には漢高安茂を遣わして交替させています。欽明15年には固徳馬丁安から王柳貴へと交替させたことが日本書記に記されています。この間の記述が抜けているようですが、ずっと引き続き交替しながら五経博士が来日していたものと思われます。このように五経博士が継続的にわが国に滞在して文教に関わったということは、倭の国際的な地位向上に大いに役立つものだったでしょう。
 推古朝において聖徳太子が中国に対して対等の国書を送ることができた背景には、このように大陸文化の吸収についての積極的な希求と努力があったのです。
--------------------------------終了

儒教も仏教と時代を同じくして、伝わったようです。道教も同じく、半島で仏教と習合し、日本に伝わってきています。中国文化である儒教は、当時、半島の三国時代(百済・新羅・高句麗)で戦闘が激しかった時代に、支配階級の経典として伝わってきたようです。日本と縁の深い百済から儒教は伝来したようですが、百済も中国文化の必要を迫られていたようです。特に継体天皇は東国の出身で、伽耶(の中の安羅)とは交易等で強くつながっていたようで、大陸の文化の状況をよくわかっていたでしょう。
 百済からは、多くの亡命者や島流しになった王族が日本に来て活躍しています。彼らから仏教や儒教が日本の支配者に伝わり、仏教の勢力に押されながらも、為政者の経典として生きながらえてきたとも考えられます。儒教が庶民のものとなるのはもう少し時代が下った時期のようです。
 
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