「逝きし世の面影」の著者にして江戸再評価のきっかけをつくった在野の思想家、渡辺京二が女子大生を前に「現代の生きにくさ」を語った「女子学生、渡辺京二に会いに行く」は非常に面白い本だ。リンク 旧観念とそれにもとづく制度に縛られた女子大生の苦悩に寄り添いながら、水俣公害闘争にも携わった(それ故に左翼の問題性にも自覚的な)人生の先達として「豊かさ以前の社会の姿」を語り、また日本人として共同体の再生の可能性をともに探っている。いくつも紹介したい内容があるのだが、「大衆と学校制度と天皇制度」についての記述を紹介したい。
以下「」は「女子学生、渡辺京二に会いに行く」より引用()内は引用者による補足
「学校というのはいろいろ問題があるんですけど、要するに近代的な学校はひとつの国民国家の人材を養成するということで、日本の場合は特にエリート教育が非常にはっきりしていた。国民といってもいろいろで下で労働者、百姓として一生懸命働けばいいという連中と、それから中間あたりで技術的なこと、あるいは官僚的なことと、実務を担っていく層と、それからさらにその上の国家の全体を指導していく層。その教育課程が、戦前はみんな分かれていたんですね。庶民は小学校どまり。帝国大学を出たら要するに国家的な指導者になるということだった。戦前の教育は完全に国家の必要にあわせて編成されていた。日本の場合は徹底していて貧乏人でも東大にいけた。というのは小学校の先生がほっとかない。この子はできるのに家は貧乏だから小学校で終わるのは惜しい。田舎だったら地主が金を出して援助してくれた。そういう一種の社会的な平等性というものを、つまり社会の各層から国家に必要な人材を発掘するというシステムにおいては戦前の日本というのはかなり進んでいたわけです。近代化から遅れて出発したから、それだけシステムが新しかったともいえるわけです。」
「一般の小学校までしか行かなかった人たちには、上の学校に行った人に対する尊敬の念はありましたが、コンプレックスもあった。(しかし)庶民の持っている学校に行った人に対する尊敬の念を徹底的に打ち破ったのが戦争でした。日本には徴兵制がありましたが、(大学へ行った連中は)いろいろな兵役を回避する特権を持っていた。ところが日中戦争、日露戦争が始まって大学出もみんな兵隊にとられた。そうしたら百姓出の兵隊はあきれたのです。大学を出たやつって、なんもできん。ゲートルを巻けない。何か動作をやらせても間が抜けていてのろのろしている。こんなにアホやったか、というふうに初めて大学のエリートたちの実態を見た。(ですから戦後は大学出は威張れなくなった)」
「学校というものはそういうもの(近代国家のエリート養成機関)でしたから、庶民からいうと、尊敬の念は持っていますが、実は関係ないわけです。今でも(熊本の)年配のお百姓さんや漁師さんは俺は(熊本の宇土半島の先端の)三角の東大(灯台)出だと冗談を言います。つまり、小学校しか出ていないことが誇りなんです。そして俺は学校は好かんかった。行かんかったというのも、これまた誇りなんです。‘山学校’という言葉があります。学校に行ってきまーす、といって山に行って遊んでることです。庶民というものは、権力装置としての学校なんてものとまったく無関係の世界で、自立した自分の世界、価値観を持ってたんですね。」 |
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