「ベニスの商人」で知られるベネツィアは、ガリレオが活躍した当時、ベネツィア共和国という独立国家であり、東地中海貿易で栄えていた。数学や天文学をはじめとするガリレオの業績の半分以上は、ベネツィア共和国にあるパドヴァ大学の数学教授時代に積み重ねたものである。
しかし、ガリレオはパドヴァ大学での待遇に満足できず、生まれ故郷であるフィレンツェ(当時はトスカーナ大公国)へ帰国する。共和制を採り、まがりなりにも選挙で元首を選んでいたベネツィアから、メディチ家が支配する世襲制のトスカーナ大公国へ帰国するにあたっては、戦争が絶えなかった時代ゆえ「一領主に支配された国へ行けば、領主と運命をともにする」と、周囲から心配する声もあったようだ。
さらに、ローマ教皇庁と対立関係にあったベネツィアとは異なり、ローマの支配が強固なフィレンツェに帰ることは、地動説を支持するガリレオにとって、教皇庁と軋轢が起きることも予想された。むしろ、ベネツィアに居たからこそ、宗教勢力による圧力とは無縁で研究に邁進でき、成果を上げられたと言えるかもしれない。
そうした心配をよそに帰ってきたガリレオだったが、余人に代えがたい実績が認められ、ピサ大学の教授兼トスカーナ大公付哲学者となった。哲学者は数学者より上位の地位にあったため、ガリレオは肩書きにこだわったようだ。かつて数学講師としてピサ大学に勤めたものの、任期切れでピサを離れざるを得なかったガリレオとしては最高の栄達を実現したことになる。さらに1623年、旧知であったマッフェオ・ヴィンチェンツォ・バルベリーニがローマ教皇・ウルバヌス8世となるに至って、ガリレオの栄誉は頂点を迎える。
しかし、ガリレオの名声が高まるにつれて、地動説への反感や成功へのねたみ、加えて議論の相手を完膚無きまでに叩きのめすガリレオの性格も災いして、彼に敵対する者も増えていった。
教会の教えに反して地動説を広めたことにたいする1616年の第一回異端審問所審査では、お咎め無しで済んだものの、1633年の第二回異端審問所審査では有罪となり、以降亡くなるまでフィレンツェ郊外で軟禁状態に置かれた。ローマ教皇が誤りを認め、ガリレオが名誉回復したのは、実に360年後の1992年である。
「宇宙は数学で記述できる」と言ったのはガリレオである。この後、デカルトやニュートンなどに大きな影響を与え、現在にまで繋がる数学至上主義の基礎を作った。また、パドヴァ大学時代に発明した「幾何学的・軍事学的コンパス」は、大砲を撃つときの角度と火薬の量を決定することができるコンパスだった。実用性を重んじたガリレオは、報酬を取ってこのコンパスの使い方を教えたという。小さなものではあるが、軍事と科学との出合いと言ってもいいのではないだろうか。
教会とは対立したガリレオだったが、自身の息子は神学者にしようとピサ大学に入れ、娘二人は修道院に入れた。(当時はそれが立身出世の常套手段)ガリレオ自身は、敬虔なカトリック教徒であったと言われているが、科学については教会の権威に盲目的に従う事を拒絶し、哲学や宗教から科学を分離する事を提唱した、といわれている。
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当時、力の原理が、武力および統合観念としての宗教から、資本へと移行する時代にあって、私権の可能性は拡大していき、教皇の権威は低下しつつあった。
すでに資本力で統合され、共和制へ移行していたベネツィアでは、宗教体系との矛盾を気にすることなく研究に埋没できたガリレオだったが、フィレンツェでは、メディチ家に気に入られることが最も重要で、そのため木星の衛星に「メディチ星」と名付けるといったアピールまでしている。
こうしたガリレオの行動こそ、武力支配に伴う宗教的権威から脱し、私権の可能性へ収束しようとした時代の流れを象徴していると言えるだろう。
「哲学や宗教から科学を分離する事」を実現しようとしたガリレオだったが、「金貸し」という新しい支配者の下僕になりつつあったことについて、どれほど自覚していたのだろうか。
(参考:ガリレオの生涯 リンク)
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