>『仲間世界をどう生きるか』という課題と答えは、ほぼ全面的に潜在思念の地平にある。そこでは、「友情」「愛」etcの倒錯観念は役に立たない。潜在思念と実現回路が全ての世界である。
仲間世界の圧力として最初に登場したのが「いじめ」である。いじめの中身が以前とガラッと変わりだした。だれもがいじめられっ子でいじめっ子でもある。
そこでは、私権という収束軸が衰弱し私権仲間としての強固な結びつきが薄れたために個々の関係は希薄化し、更には表層化している。にもかかわらず、私権という統合軸をうしなって深い統合不全(⇒答え欠乏)を孕んだ子供たちは、(原猿と同様に「どうしたら良いか」の答えをもとめて)極めて強く仲間に収束する。こうして、子供たちの世界で仲間圧力が絶対化する。
その結果、仲間関係は最大の関心事でありながら、上手くそこに入り込めない者には、最大のストレスの場にもなってしまう。当然、充分な充足や関係の深化は望めない。仲間世界は絶対に捨象できなくて、絶対に充たされない・・・非常に葛藤した状態に置かれるのである。
その原因をつくりだしたのは、私権統合の崩壊であるが、それ以外にも重要な犯人がいる。それが「課題のない中での仲間収束の蔓延」である。
課題がない中で仲間収束の圧力だけが高まれば、当然足の引っ張り合いに終始するのは自明であるということだろう。
これが四方氏が言うところの下記の件につながるのである。
>それに、非充足の多数派が、今、何よりも『仲間世界をどう生きるか』の答えを求めているのは、事実or現実ではあるが、不健全な現実でしかない。
しかし、いくら不健全であっても仲間収束のベクトルは変わらない。他者否定して引きこもるか、仲間社会に見事に適応して本源的な実現回路を発達させるか、道は二つに分かれる。
少数ではあるが、上手く適応した実現派はやがて仲間で群れること自体にはそれ以上の可能性がないことを察知し始め、課題を通して初めて本当の仲間充足があることを学習していく。さらに今では、潜在思念の答え欠乏に導かれて答え=新しい認識を求めはじめているのかも知れない。
そんな彼らにとって「認識仲間」という言葉は一番ピッタリくる収束先となるだろう。すでに”癒し”という言葉が過去のものになり始めている現在、仲間は癒しの対象ではない。答え=課題を求めて集まるのが仲間であり、その中心には実現派とよばれる先行派が既にいるのかもしれない。
|
|