【百済の会アカデミー:歴史講座「百済と百済王」】の『第1部半島古代史の中の百済 百済の成立と三国時代(リンク)』より転載します。
支配階級がツングース系扶余族の末裔、庶民は韓族(越人?=江南人?)といわれる百済の成立の歴史をご紹介します。
百済はのちに倭国との共同関係を構築していきますが、馬韓から生まれた説があります。
三韓は、もともと部族連合の色彩の強い地域であり、氏族共同体的色彩を帯びた地域とも思えます。もともと、朝鮮南部には、過去、江南人=越人がたどり着き、朝鮮倭人となった可能性もあり、日本と半島に倭国があったかもしれません。馬韓の成立過程も一緒にご紹介します。
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(2)百済の成立
百済が高句麗の平壌を攻めて故国原王を戦死させたのは百済の近肖古王の時代でしたが、東アジアの大国に成長した高句麗に対抗する勢力となった百済は、どのように成立したのでしょうか。
@三韓(馬韓・弁韓・辰韓)百済は、馬韓にあった伯済国を基にして生まれましたが、さて馬韓とは、そして三韓と呼ばれる馬韓・弁韓・辰韓とはどういうものなのでしょうか。
古朝鮮の衛氏朝鮮がBC108年に後漢の武帝によって滅ぼされ、漢の郡県組織による支配の中に編入されてしまいます。楽浪・臨屯・真番・玄菟の4郡が置かれ、楽浪を中心として統治が行われ、漢の官僚や商人が進出して経済的な利益を得ました。楽浪郡はその後も漢と朝鮮半島間の貿易の中継基地としての役割を担い続けました。しかし南部においてはその統制も十分に行き渡らず、臨屯・真番の2郡は間もなく廃止され、玄菟郡は北西部へと大きく後退してしまいます。
半島南部諸地域には衛氏朝鮮の時代から韓族による辰国というのがありましたが、その韓族は各地に分裂割拠して首長たちは臣智とか邑借と自称し、また楽浪の太守を介して帰義侯とか中郎将などの中国式官名を受けて、中国の間接的支配下に入り権力を拡張していきました。
この権力者たちが3種に分かれ、西方に馬韓50余国、東方に辰韓12国、辰韓に雑居して弁韓12国となりました。国といっても権力者たちの支配する範囲を称しているのですが、馬韓には多くの国があって最大ですから、ここから馬韓・弁韓・辰韓全体の王を立てて辰王とし、都を馬韓の月支国に定めていました。この馬韓・弁韓・辰韓がいわゆる三韓なのですが、その三韓のそれぞれが徐々にまとまっていって独自の勢力圏を形成していきます。
A 温祚王の建国
三韓の中でも馬韓は50余国を擁して最大でした。現在の漢江から西南の全体をカバーする広い地域を馬韓が占めていました。漢江の南岸に伯済国があり、それが百済国に発展したと言われています。
百済の始祖は温祚王と言われます。百済の建国神話によりますと、温祚王は高句麗の始祖朱蒙の第3王子でしたが、異母兄の類利(後の高句麗第2代王の琉璃明王)を恐れて兄の沸流と共に逃れて南下し漢山に至りました。沸流は弥皺忽(ミチュフル)今の仁川に居所を定め、温祚は漢江そばの慰礼(ウィレ)今のソウルを都とし国号を十済としました。これがBC18年のことです。その後沸流が死ぬと温祚がその民を合わせて国号を百済とし、自ら扶余氏を名乗ったと言われます。これは扶余族が次々に南下して最初は弥皺忽周辺に定住したのが、次第にその中心を慰礼の方に移していったことを表しているのではないかと考えられます。慰礼の方には伯済国があり、そこに扶余族が進出して勢力を拡大し支配権を確立したということではないでしょうか。
百済は建国すると周辺の国々を合わせながら馬韓全域に勢力を拡大していきました。漢江流域は土地が広大で肥沃であり食料が豊富で、水上交通の便がよく山間部からは鉄が産出して、軍事力の強化と経済的発展のためには極めて恵まれた場所であったため、百済国は大いに国力を養いました。
3世紀の8代古爾王(234〜286)の時代には、6佐平と16等級の官職体系が整備され、律令が施行されるなど国家制度が整えられました。また古爾王代の246年には帯方郡との間に大きな衝突があり帯方太守が戦死、これを契機として中国の郡県よりも百済が優勢になり国家として大きな成長を遂げました。250年頃には馬韓の中心である目支(モクチ)を征服して南方に勢力を広げ、東北方面の東、北の楽浪や高句麗、東南の新羅とも争いながら、3世紀頃には強大な国に成長しました。
この時期の中国では後漢が220年に滅んで、魏・呉・蜀の三国が活躍する三国志の時代に入っており、内部抗争を繰り返す中で対外的に勢力を伸ばせる状況ではありませんでした。従って楽浪・帯方の力も衰弱していたのです。百済が発展するのにこの中国状勢は大いに都合がよかったと言えるでしょう。
B近肖古王の活躍百済は4世紀に入ると更に強力
百済の発展(最成長期)な国家に成長します。近肖古王が大規模な征服事業を敢行して王権を強化しました。王は先ず洛東江流域の伽耶地域を征服したのち、栄山江や蟾津江流域の馬韓諸国を次々に征服して領土を南海岸地域にまで拡大しました。そしてまた北方に目を向けて、かつて帯方郡であった地に進んで高句麗軍を撃破し、捕虜5千人を生け捕りにします。更に371年には近肖古王は部隊を自ら率いて平壌に乗り込み、高句麗の故国原王を殺害しました。このようにして近肖古王が獲得した地域は広大なものとなり百済史上最大となりました。
更に百済は、楽浪郡が設置されてから中国人が開いてきた海路を通じて貿易を盛んに行い、わが国とも密接な関係を持つようになりました。369年には高句麗広開土王の攻撃を受けて漢江以北の地を失いますが、こうした高句麗との対立関係の中にあって百済は倭との親交を進めるべく、倭王雄略に七支刀を送っています。また応神天皇の要請に応えて王仁を来日させ、王仁は論語と千字文を伝えました。更に中国の南朝とも交流を密にし、東アジア世界に積極的に関わりを持ちました。このような対外的な発展と同時に、国内では官等制を拡充して王位も兄弟相続から父子相続に変え、王妃もまた真氏に固定して王族の安定化を図りました。仏教を受け入れ、一連の改革を完成させ、百済の国力は著しく強化されたのでした。
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