> こうして民主主義は、『学び』をないがしろにし、「発言権・議決権」を優先(=批判と要求を優先)させることによって、とことん自我を暴走させると共に、とことん人々を無能化させてきた。256228
こうした民主主義思想に危機感を抱いていた戦前の保守派論客の一人に、福田恆存<つねあり>(1912〜1994)という人がいる。戦前の日本のデモクラシーを知る者の中には、まだ無能化せず、オブラートに包まれていない民主主義の本質が見えていた人間がいたのかも知れない。
『民主主義といふのは論争の政治である。それを「話合ひ」の政治などと微温化するところに、日本人の人の好さ、事なかれ主義、生ぬるさ、そして偽善があるのだ。和としての「話合ひ」ではない、勝負としての論争が必要なのである。たがひに自分の方が真になることを証明しあひ、時には相手をごまかしてやるがよい。ごまかされた方が悪いのだ。ごまかしは悪であり、そのための雄弁は悪であるといふ偽善国に、民主主義が発達したためしはない。』(「論争のすすめ」)
『民主主義とは為政者の側が最も大事なことを隠すために詰まらぬことをささぬ やうにする政治制度である』(「外交を内政に利用するな」)
『民主主義の原理は、自分が独裁者になりたくないといふ心理に基づいてゐるのではなく他人を独裁者にしたくないという心理に基づいてゐるのである。一口に言へば、その根本には他人に対する軽蔑と不信と警戒心がある。さうと気づいてもらへれば、「正義の主張は犯罪と心得べし」といふ私の忠告は極く素直に受入れられるだらう。愛の陰には色情があり、 正義の陰には利己心がある。反省のふるひにかければ、愛や正義の名に値するものはめつたにないことになる。それがどういふわけか、今日の日本では、民主主義だけが筋の目を逃れ、ほとんど唯一の禁忌にまで昇格してしまつてゐる。敵も身方もそれを旗印にする。民主主義の名の下に暴力を犯し、あるいは暴力を犯してそれを肯定するために 民主主義を口実にする。さうかと思ふと、暴力は民主主義ではない、それに反するものだと言ひ、民主主義をもつてそれを説伏しようとする。民主主義とはそれほど便利なものか。』(「民主主義を疑ふ」) |
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