橋下大阪府知事が、持論である大阪都構想に賛成の市職員を抜擢し、反対する市職員を降格するためのリスト作りを維新の会所属の大阪市議に指示、つまり、首長選の候補者が選挙に先立って公約への賛否を自治体職員の「踏み絵」にするという異例の事態(参照:リンク)に対して、内田樹氏が「多数派であることのリスクについて」リンクの中で警鐘を鳴らしています。以下、抜粋引用です。
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>まだ市長になっていない人物が市職員に要求している以上、これは彼に対する「私的な忠誠」と言う他ない。彼はそれを「処罰されるリスクへの恐怖」によって手に入れようとしている。
私はこの手法に反対である。
>逆説的に聞こえるだろうが、少数意見であればあるほど、そして、自分がその意見が「他の人たちに聞き届けられる必要がある」と信じていればいるほど、語り口は丁寧で穏やかなものになる。
うかつに断定的に語り出したり、聴き手を見下したり、恫喝したりして、「気分の悪い野郎だな」とふっと横を向かれ、耳をふさがれてしまっては、それで「おしまい」だからである。
>ネット上の罵詈雑言を見ればわかるが、威圧的であったり、断定的であったり、冷笑的であったりする人たちは「自分と意見を同じくする数十万の同意者」の存在を(無根拠に)前提にして、そうしているのである。
どのような意見であれ、それが「圧倒的多数の支持」を勘定に入れたときに、言葉は粗暴になり、空疎になる。
>20世紀の政治史を振り返るとわかることだが、スターリンも、ヒトラーも、毛沢東も、ポルポトも、フセインも、カダフィも、「国民の圧倒的多数の支持を得ていた政治的意見」の上に立っていた。
だが、ある日ことが終わってみると、「その言葉は私自身の言葉です」として引き受ける個人はどこにもいなかった。
「支持者の多い意見は現実的で、支持者の少ない意見は空論的である」という命題は論理的にも、実践的にも正しくない。
支持者が増えるほど「それは私の個人的知見であり、最後のひとりになっても私はその意見を言い続けるつもりである」と言う人の数は減り、言葉の責任をとる気のある人が減るほど、政治的意見は過激で、粗雑で、空疎になる。
民主主義のルールには「少数意見の尊重」というものがある。私はこれはむしろ「多数派が空洞化することのリスク」として理解すべきことではないかと思っている。
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つまり、「多数決」であれ、「少数意見の尊重」であれ、いわゆる「民主主義のルール」では本当の答えは導き出せない、ということでしょう。
>事実、民主主義は、何よりも「発言権」や「評価権(議決権)」を優先させ、『まず学ぶ』という人類の根本規範を見事に捨象している。だから、「民主主義は正しい」と信じ込まされた人々は、『まず学ぶ』という根本規範を踏みにじり、身勝手な要求を掲げて恥じない人間と化す。(256228)
にある「まず学ぶ」という人類集団の根本規範のあり方を真剣に考える好機かと思います。 |
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