「基本的人権」という概念は、法や政治を語る際に、いまさら問うまでもない自明の言葉として用いられ、その根拠や出自についてほとんど何の吟味もなしに、ただ、なくてはならないもの、保証されるべきものとしてイメージされていることが多いように思いますが、私は、自然法、基本的人権といった概念は、その歴史的出自からしてきわめて怪しげなものであると考えています。拙い文章ですが、少しまとめてみましたので参考にしてください。
まず、中世スコラ神学・法学における「自然法」についてです。
キリスト教的な世界観において、「自然」という言葉は、すなわち「神によって造られたもの」という意味を持っており、したがって、そこには当然、神の法の支配が及んでいるものと理解されます。そこから、例えば、「自然法」と言えば、人間の理性によって理解された限りでの神の法、ということになるし、「自然状態」と言えば、神が人間を己の似姿に創造したときの、その本性に従って、素朴で正しい生活を営んでいる状態を指す、ということになっていました。
要するに、「自然」とはいうものの、現実の生活社会そのものを表すものではなく、神という絶対価値により根拠付けられ、その神の摂理によって秩序付けられた完全なる「観念世界」を表象しています。つまり、人間存在の根拠は「神」の一点に求められるという観念上の絶対性を有しています。
この時代には、まだ「人権」という概念はなかったのではないかと思いますが、現実の私権圧力や生存圧力といった、力の原理やどうしようもない圧力を伴った現実世界とは全く別の位相で、神を根拠に人間存在を位置付けていたと言う意味で、上記の中世キリスト教的な世界観は、人権思想の前身のようなものではないかと考えられます。
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