日本を守るのに、右も左もない
253294 大本と軍とのつながり
 
匿名希望 11/06/20 PM07 【印刷用へ
陸軍内での日月神示の信奉の源流は、日月神示を書いた岡本天明がもともと属していた「大本」にまで遡ると思われます。大本と軍の関係を示す内容をいくつかのサイトから引用します。
まずは、飯山一郎のLittleHP(リンク)より引用します。

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●大本教入信の主要軍人

 軍関係の重要人物と大本教との関係は、大正二年(一九一三)五月に福中鉄三郎(予備役海軍機関中佐)が大本に入信したのが嚆矢である。二年後の大正四年(一九一五)には福中を介して飯森正芳(同)も入信した。飯森は戦艦「香取」乗組員二五〇人を甲板上に集めて大本教の講話を行なうほどの熱心な信者となったが、一方で飯森は「赤化中佐」とも俗に呼ばれており、トルストイ主義を自ら奉じて無政府主義者や社会主義者の札付きとも平然と親交を結んだ豪放磊落な性格で知られていた。

 大正五年(一九一六)十二月には、横須賀海軍機関学校の英語教官だった浅野和三郎とその実兄である浅野正恭(海軍少将)も大本教に加わってくる。やがて浅野和三郎は王仁三郎をも凌ぐ一大勢力を大本教内に有し、実質的に大本教ナンバーワンと目される時期もあり、日本海海戦の名参謀として有名な秋山真之の入信にも荷担している。

 秋山真之の入信がきっかけとなって桑島省三大佐(のち中将)や山本英輔大佐(のち大将)ほか、四元賢吉大佐や矢野祐太朗中佐(のち大佐)などの海軍軍人が陸続と大本教へと入信するようになる。

 こうした影響力は陸軍にも及んで、大将七年(一九一八)入信の小牧斧助大佐を契機として石井弥四郎(予備役大佐)や秦真次中佐(のち中将)などの入信が相次ぐことになる。

 さて王仁三郎の入蒙経綸であるが、王仁三郎に強い影響力を及ぼしたのは日野強(ひの・こわし)陸軍大佐(一八六五〜一九二〇)が筆頭とされている。日野は日露教争に先立って軍令により満洲と朝鮮を踏査した経験があるが、日露戦争後の明治三九年(一九〇六)七月、陸軍参謀本部から天山山脈に囲まれたイリ地方を中心に支那新疆省を視察せよとの密命を帯びて出発した。日野の踏査紀行は後に『伊梨紀行』(芙蓉書房刊*1973年、復刻版)という著書として刊行されている。それは新疆地方を中心にカラコルムを経てヒマラヤを越えインドまで達する壮大な探検物語である。

 出口王仁三郎入蒙の相談相手として陸軍は、退役後に支那青海で缶詰業を営んでいた日野強を呼びもどし綾部に送りこんだが、海軍は退役大佐で大本信者の矢野祐太朗に大陸現地の奉天で王仁三郎の受容工作を進めさせていた。

 矢野は奉天において武器斡旋を業とする三也商会を営みつつ、大陸浪人の岡崎鉄首らと組み、満蒙独立を志していた廬占魁と渡りをつけ張作霖ルートの取り込みに成功するが、その裏には堀川辰吉郎の手配があったことはほとんど知られていない。岡崎鉄首は玄洋社の末永節(すえなが・みさお)が大正十一年(一九二二)に創設した肇国会のメンバーだった。

 肇国会は満蒙およびバイカル湖以東シベリア地域を「大高麗国」と名付け中立ワンワールド構想の下に大陸工作を行なっており、その活動は犬養毅や内田良平らの支持を得ていた。

 肇国会による大高麗国ロードマップは王仁三郎入蒙経綸の版図と重なり、その思想的背景をなしたと見ることができる。
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続いて、読書日記(リンク)より引用です。
大陸で支那人に扮して内偵活動を行っていたとされる、出口清吉についてです。

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★なぜ近衛入隊が叶ったか 出口一族の秘事を探る

 愛親覚羅氏と皇室を繋げた功労者は軍事探偵・王文泰であった。本名出口清吉といい、大本教の開祖・出口ナヲの次男として明治5年旧6月6日に丹波綾部で生まれた。ナヲの曾孫(出口王仁三郎の孫)出口和明の著書『いり豆の花』によれば、明治25年旧元旦に霊夢を見たナヲが、その数日後に帰神し、教団はこれを以て大本の開教とする。後に清吉の妹・スミの入婿として出口王仁三郎を名乗る上田鬼三郎は、明治4年旧7月12日生まれだから、義弟ながら清吉より1歳上である。

 気性さっぱりした美丈夫の清吉は、25年夏に20歳に達して徴兵検査を受け、12月1日を以て近衛師団に入営することとなった。近衛師団の魁は4年2月に薩・長・土三藩の藩士から募集した御親兵で、5年近衛兵と改称し天皇及び皇居の守衛に任じた。全員士族の近衛兵は、6年の徴兵令で鎮台が設置されると、徴用された鎮台兵(壮兵)の軍事訓練にも当たった。24年陸軍大臣・高島鞆之助が鎮台を師団に改編した時、近衛兵は近衛師団と改称、平事は天皇・皇居の警護を旨とし、戦時には教線に参加することとなり、初代師団長に陸軍大将・小松宮彰仁親王を補した。一般師団は所在の管区から徴兵したが、近衛師団は全国の徴兵から選抜した兵を以て充てた。家柄良く身体強健、学業優秀、素行良好を条件に徴兵検査で選抜された近衛入営者は、各郡からわずか1、2名で家門の名誉とされた。25年に何鹿郡から入隊したのは清吉のほか1人であった。

 出口和明前掲著は、ナヲの残した御筆先の内容を関係文献・周辺伝承で裏打ちして、開教の事情に関し精緻な考証を重ねたものだが、その中で清吉について、小学校にも行かず紙漉きをしていたのに近衛兵に選ばれた不審を追究していない。そもそも25年は元旦に実母・ナヲが神懸かりして警察命令で座敷牢に幽閉され、直前に実姉・大槻ヨネも発狂、さらに実姉・福島ヒサも一昨年に発狂した。綾部で知らぬ者はない問題の一家の子弟を天皇に近侍する近衛兵にわざわざ選ぶなぞ、通常ではあり得ない。出口家が極貧ばかりか精神的にも悲惨な状態にあったとの説明が事実なら、清吉の近衛入営と明らかに矛盾する。蓋し、その裏には出口和明さえ知らない出口一家の秘事があった。因みに、王仁三郎の祖父・上田吉松に関しても、『周蔵手記』が伝える実像は、教団側の説明とはかなり異なり、むしろかけ離れている。
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