実現論を塗り重ねてゆく
251643 チベット人は南方発の森の民
 
田野健 HP ( 50 兵庫 設計業 ) 11/05/19 PM03 【印刷用へ
チベットは現在では中国の西側の山岳部のチベット自治区を指すが、大きく捉えるとヒマラヤ山脈を挟んだ麓の北側と南側に居住する山岳適応した部族の集合体である。広くはブータンやネパールも含み、国境に縛られない。その民族の起源は現在でも明らかになっていないが、チベット高原には旧石器時代である2万年前には居住の後が認められ、中国の史書で記載されている中では少なくとも5千年前にはチベット高原南側で集団居住していたとされる。
山岳地帯のチベットになぜこんなにも古くから人が居住していたのか?そのような疑問が拭いきれないがひとまず、チベットの地域の特殊性を紹介しておきたい。

【チベットに農耕はあった】
チベットの占める面積は広大で、およそ380万平方キロメートル、フランスの7倍にあたる。しかし居住人口は350万ないし、400万にすぎない。この国は世界でも最も高所に位置しており、高度3000メートルないし4000メートルのところに村や町のあるところは珍しくない。道路は5000mの峠を超え、山々の高いものは7000mから8000mに達する。チベットは寒くて荒涼とした住みにくい土地と思われがちであるが、この印象はただちに訂正する必要がある。チベットの緯度はアルジェリアと同じである。(沖縄北部と同じ)国ただこれ雪と荒涼というのは大きな間違いで、実際には平地や山あいに畑も牧場も森もある。これらの森はかつてはもっと広範囲にわたって存在しており、今日では禿げ上がって頂にしか見られない森も、かつてはいたるといころに存在していたと思われる。

山地の冬は長く厳しい。だが、平野部や山あいでは、日中は思いのほかの陽射しが冬を非常に過ごしやすくしている。山脈が縦走する東部の山あいでは、アッサムや雲南ごしに南方からの季節風の影響が及び、チベット南部のいくつかの山あいにもヒマラヤの隙間をぬって季節風が入り込む。雨はきわめて稀にしか降らないが、農耕の為の水は、雪解けの水や氷河から流れ出る水が補う。

チベットの土地を一般化してはならない。山あいの向きや山脈の並び具合や緯度や相対的ナ高度が種々様々な気候をもたらし、地域の条件に大きな変化をもらたす。類を異にする環境がいたるところに存在しているのがチベットの特徴である。それを2重構造と呼ぶが、牧畜と農耕がそれぞれ適所で営まれ、並存しているのもチベットの特徴である。従って牧畜と農耕の2つの集団がそれぞれ季節のリズムに従って、2つの環境の間を行き来する。

【チベットの遊牧民は後発の異民である】
チベット人を原野を移動する大遊牧民とする見方がしばしば行なわれるが、この見方は不十分である。最近になってやっと「チベットの経済は本質的に穀物栽培と家畜飼育とを基盤としている」という記述が正確である。占拠する面積の比率から見れば確かに牧畜の面積の方が多い。しかし前者(牧畜)の地域の大部分が歴史の黎明期にあってはチベット人以外によって占められており、近代でも同様であった。近代の調査ではチベット人の住民の大部分(6分の5)が農業に従事する事が報告されている。チベットでは農耕民と遊牧民は古くから対立構造であり、チベットの本質は前者の方であった。これは13世紀にモンゴルの王の保護の下で民勢調査が行なわれ「チベット人」と「遊牧民」で区別して使い分けられていることでも明らかである。

【チベット族は森林発】
最後にチベットの神話から出自を見ておきたい。
チベットの伝説によればその先祖になる最初の夫婦は、森の猿と岩の精女であった。彼らが夫婦になった楚ソタンと呼ばれる場所は一般にツァンボ河の南にある山あいの地、ヤルルン地方にあったとされる。(中略)伝説によるかぎり最初のチベット人はチベットの南東部にいたと見るほうがよい。そこは森に覆われた山国であり(森には猿が生息する)、比較的温暖で、農耕に適している。最初の耕作地が認められるのもソタンである。ヤルルン地方がチベットで最も肥沃なところであることも知られている。つまりチベット人の出自は南方の森林地帯であることが伝説から浮かび上がってくる。

〜参考:チベットの文化〜R.Aスタン著

続きはブログ「縄文と古代文明を探求しよう」で、最初の疑問「チベットになぜこんなにも古くから人が居住していたのか」を追求していきたいと思います。
 
  List
  この記事は 241442 への返信です。
  この記事に対するトラックバックURL  http://www.rui.jp/tb/tb.php/msg_251643
  ※トラックバックは承認制となっています。

 この記事に対する返信とトラックバック
294748 チベット仏教について 谷光美紀 14/09/01 PM11
シリーズ「人類の部族移動」その8 印欧語族の登場と人類最初の戦争 「縄文と古代文明を探求しよう!」 11/05/20 PM00

[過去の記事へ]
[一覧へ戻る] [新しい記事へ]


◆実現論本文を公開しています。
 実現論 : 序  文
 第一部 : 前  史
 第二部 : 私権時代
 第三部 : 市場時代
 第四部 : 場の転換
 参考文献

 必読記事一覧
01 02 03 04 05 06 07 08 09 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28
「日本人の起源」解明 これまでの成果と残課題
モンゴロイドの歴史E 日本人は、どこから来たのか?
日本語の起源をアルタイ語とするのは誤りではないか?
日本語の起源:「文法は北方由来、語彙は南方由来」の謎⇒変化したのは大陸の言語のほう。スンダランド海没が解明の鍵!
南方か北方かを言葉からみる
縄文時代以前から複数のルートで移住してきた?
「南から見た縄文」最終回〜南方からの視点で見えてきた可能性
黒曜石、翡翠の広域に渡る存在は、交易ではなく贈与の結果ではないか@
三内丸山の大規模化は同類闘争に備えるためではないか?@
朝鮮半島からの流入民との融和をもたらした古代日本人の縄文的性質
古代朝鮮からの侵略部族が、一貫して日本を支配してきた
『邪馬台国論争終結宣言』山形明郷著〜B倭はどこにあったか?
『邪馬台国論争終結宣言』山形明郷著〜C卑弥呼は遼東侯公孫氏の係累
『邪馬台国論争終結宣言』山形明郷著〜D邪馬台国はどこにあったのか
古代朝鮮の歴史と移民の流れ(2)〜倭人とは華南の越人の事である。
古代朝鮮の歴史と移民の流れ(3)〜帯方郡で魏に朝貢したのが卑弥呼である
世界規模の気候変動が4200年前に起きている。〜この時期の流民が縄文人を形成した!?
新羅の歴史(新羅の高官はいつ日本に入ったか?)
百済の歴史(天皇家は百済の王族そのものでは?)
高句麗の歴史(高句麗は日本にどのように入り込んできたか?)
騎馬民族は来たのか?? 江上氏騎馬民族説のバックボーン ~遊牧民族・騎馬民族の文化的特性・民族的気質~
著書分析より明らかにする日本支配の始まり5〜山形明郷著『邪馬台国論争 終結宣言』から古代日本の支配層を探る〜
著書分析より明らかにする日本支配の始まり〜6.『騎馬民族征服王朝説』にみる天皇家の血筋と支配の手口〜
「日本人の起源」を識る〜3.縄文人を作った採集の民D2
弥生時代の解明4〜神社に見る中国系から朝鮮系への転換、支配体制の確立
日航事故F 旧陸軍勢力の頂点にいる裏天皇の正体は?
支配階級の骨身に染み付いた属国根性
庶民にとって「お上」のことなど、どうでもよかった
民の「お上捨象」とお上の「民の生活第一」という日本人の特異な体質
縄文文明こそ日本文明
外国人から見た日本と日本人(1/2 日常編)
世界共通語となる可能性を持った日本語
『ありがとう』は魔法の言葉

『るいネット』は、47年の実績を持つ起業家集団・類グループが管理・運営しています。るいネットワーク事務局(Tel:0120-408-333, E-mail:member@rui.ne.jp