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オヤとコ(柳田民俗学から) |
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( 30代 大阪 塾講師 ) |
02/02/26 PM00 【】 |
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こんにちは、鈴木さん。『柳田邦男の民俗学』(谷川健一著)、私もちょうど読んでいました。
柳田氏のオヤとコについての以下の考察もありますね。
日本の農村の半分以上は親類のことをオヤコと呼んでいた。オヤコやイトコのコは家の子のコである。家の子は労働単位であり、これを指揮するのがオヤであった。そのオヤは共同体の作業の頭であった。本物の親よりも長男のことをオヤカタと呼ぶ方言が広く知られているが、それは総領が労働の頭としての機能をもつ名残りであった。親類をオヤコと呼ぶのは、労働のための共同体が今日よりはるかに強大であったことを示している。現在のように家族の父母に限ってオヤと呼ぶことは、かなり新しい現象である。
また、中村吉次氏が『日本の村落共同体』で以下のことを述べているそうです。
真の共同体は「一人が欠けても、一人が多すぎてもならぬ。不分割な一体なのである。そして、それは、生産手段もまた不分割であること、分割してもしょうがなく、分割する要もなく、分割できぬものである」生物的な血縁か非血縁かにこだわらず、共同体を形成する集団は、社会的にまた観念的に血縁の同族組織である。そうした組織の中心がオヤであり、それにしたがうものがコであった。
私婚を中心とする親と子、特に近代以降の一対婚家庭での親と子は、その紐帯を血縁関係、せいぜい解脱にしか拠り所を求めることができなくなっています。人として、実は非常に淋しい関係といえます。
外圧を前にして、生産を第一課題として統合されていた共同体内では、成員それぞれに役割・課題も与えられ、オヤとコの関係は解脱・闘争など多重の紐帯で結びついていて、濃密であったと思われます。オヤに対するコの信頼感も今の親と子の関係よりもはるかに高かったに違いありません。また、数十人といった規模の共同体では、成員どうしお互いの関係も多重であり、現在の親子関係よりもはるかに人としての充足感(共認回路の充足)も大きかったに違いありません。
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