弥生時代に関係する中国大陸の民族移動の様子について、安田喜憲著「龍の文明・太陽の文明」の中に以下のような記述があります。
>四千年前頃、長江文明が気候の乾燥化と北方の畑作・牧畜民の侵略によって衰退すると、北方の龍族が大きな力を持って南下し、ついに長江流域に生活していた苗(ミャオ)族など、三苗(さんびょう)とよばれる太陽族・鳥族・蛇族を駆逐しはじめた。とりわけ三千年前以降の気候の寒冷化は龍族の南下に拍車をかけた。かくして、太陽族・鳥族・蛇族の苗族たちは敗れ、雲南省や貴州省の山岳地帯へとおちのびていく。その一派が海上難民として日本列島にも到達し、稲作と太陽信仰、鳥信仰をもたらしたのである。
安田氏は北方の畑作・牧畜民によって南方へ追いやられた稲作・漁労民が東シナ海に逃れ、対馬暖流を北上して九州南部(隼人)へ、さらに九州北部を経由し出雲へ、最後は富山の越の国へ至る「南方渡来説」の立場のようです。そして、朝鮮半島から北方の畑作・牧畜民が日本列島に渡来するのは弥生時代後期から邪馬台国の時代と区分されています。
渡来人の第一波は南方からであり、弥生時代の基礎を創った。その後、第二派が弥生時代の後半に北方より押し寄せ古墳時代の基礎を創ったと考えると弥生時代が判りやすくなるのではないでしょうか。つまり、縄文を最基底にした三層構造の塗り重ね度合いが地域差として現れているのではないでしょうか。
いずれにしても、渡来人は中国大陸から玉突き的に押し出され逃れてきた民であり、何よりも北方部族との闘いを経験していることは見逃せません。縄文人と共通する森の文化を持っていたとしても略奪闘争の経験は弥生時代にも色濃く反映されていると思います。そして、後からやってくる渡来人ほど略奪性に感化されていると考えられます。
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