実は私会社の同僚と三人で共同生活をしています。(遠隔地通勤や単身赴任の男ばかりです・・・残念ながら)3人の小所帯ですが、そこではお互いが気持ちよく暮らすための暗黙のルールが、自然と形成されてきています。共用のスペースには私物を散らかさないとか、ごみが溜まってきたら気づいた人が率先して片付ける、とかささいな事柄ですが集団生活を営むための規範が共認されています。
おそらく、こういった暗黙のルールが守られないと、掃除当番だとかサボったときの罰則といった制度を作ることになるのでしょうが、今のところはまだ大丈夫です。
で、制度が無くてもなぜ秩序が保たれているかというと、相手を慮って行動することが共認されていて、それを破ることはいけないこと、という共認圧力が相互に働いているからなのだと思います。
このような共同生活を円滑に行うためのポイントは「相手あっての私」という心持でしょうか。この気持ちがうすれてゆくと制度や罰則で縛らなければ集団が維持できなくなるのだと思います。
集団の規模を拡大してゆけば、これが地域集団とか企業集団になってゆくのですが、どうも大きくなると「相手あっての自分」という気持ちが薄れて制度が幅を利かすようになってしまうようです。
ただ、これは規模とかの問題ではなく、いわゆる「個人の自由」とか「プライバシー」といった固定的な観念によるところが大であると感じています。
実際、このような固定観念をある程度取っ払わないと共同生活はできません。だからこそ共同生活は規範(の共認)が有効に機能する場になり得ているのだとも考えられます。
実際にやってみると、みんなで気持ちよく暮らせれば個人の自由がない不自由さはあまり感じませんし、プライバシーといっても便所が一人で使える程度あれば十分であるような気がしています。
「個人の自由」や「プライバシー」をさも大切そうに考えている「不自由な固定観念」こそが規範(とその共認)の形成を阻む元凶なのではないかと感じています。
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