Bの続きです。
Bではローマ帝国崩壊後の空白の200年間にローマの高度な文化は継承されず、ゲルマン人によってすべてリセットされ、野蛮で文化レベルの低い状態になった事が解りました。
ここが西欧文化の原点なのは明らかですが、野蛮な出自を隠すように未だ古代ギリシャ・ローマが西欧文化の出自のように語られています。
では、「女性恐怖と快楽敵視の思想」はどのように形作られ、現代に伝えられていったのか、それは「二つのまったく異質な文化圏の衝突」とゲルマン部族の支配の仕方から生まれている可能性が高そうです。引き続き論文を引用したいと思います。
女性恐怖のドイツ的起源
−ヨーロッパ文化史の再構築に向けて
リンクより
以下抜粋引用*****************************************************
W.女性恐怖と快楽敵視が誕生するメカニズム
ではローマ帝国崩壊後、全ヨーロッパがゲルマン部族の支配下におかれたのに、その後どうしてすべて「ドイツ」とならなかったのか。その答は、きわめて単純明快なのだが、その点にいたる前に、いまいちどヨーロッパが、二つのまったく異質な文化圏の衝突から成り立っており、その関係はおそらく今日にいたるまで基本的には変わっていない事実を確認しておく必要があるだろう。
二つの文化圏とは、言うまでもなく古代ギリシア・ローマに代表される古くから地中海沿岸地域を中心に暮らしてきた人びとと、紀元前にインド北西部からヨーロッパ東北部への移住を果たしたものの、ローマ帝国全盛期には主にバルト海沿岸から現スウェーデン周辺の厳寒の地に追いやられてきたゲルマン系部族のそれのことである。
もちろん二つの文化圏のあいだには、現フランス地域でガリア人と呼ばれていたケルト系の民族をはじめ、さまざまな少数民族もまた存在していた。しかし、大きくみれば、古代後期から中世への過渡期に、ヨーロッパの支配権が地中海文化圏から北方ゲルマン民族へと大きくシフトしたことが、その後の歴史を現代に至るまで基調づけたと言わざるをえない。
では、地中海文明とゲルマン部族の文化とでは、なにがもっとも異なっていたのか。その答を見いだすことが、そのままヨーロッパ全土を支配していたはずのゲルマン支配が、ヨーロッパのドイツ化につながらなかった答を提供することになる。
以上にみたように、たしかにヨーロッパ全土の支配権が、五世紀以降ローマからドイツ人の祖先に当たるゲルマン民族の手に渡ったことは紛れもない事実である。しかしこの支配権の移行は、ほぼ軍事的政治的な領域に限られたかたちで進行した。
いや、それどころかローマ帝国の国境線を先陣を切って突破し、イタリア半島になだれ込んできたヴァンダル族やゴート族にとっての唯一の関心事は、殺戮と略奪であり新たな国を制定し治める意図など微塵たりともなかったのである。
その後イタリアにロンバルディア王国を築くランゴバルド族にしても、フランス全土を支配するフランク族にしても、文化や宗教の面にはきわめて疎く、政治支配にとって有効だという打算が働いて初めて宗教に関心を抱く有様だった。
ガリア人をほぼ皆殺しにしたうえで、現在のフランス全土を支配下に治めたフランク族を率いる王クロートヴィヒは、初めてパリに首都を制定したのち、支配を確実なものにするためにはローマの知的遺産と教会の後ろ盾を不可欠とみなした。四九七年のクリスマスの日に、自らゲルマン信仰を捨て、キリスト教の洗礼を受けたのである。同時に三千からなるフランク族の戦士が一気にそれにならったとされる。
これが今日的な意味でヨーロッパがキリスト教化した決定的な瞬間である。以降ヨーロッパ全土を支配するゲルマン人は、ヴォータンやオディンを信仰する自らの宗教を捨て去り、自分たちとは縁もゆかりもないローマ教会を自分たちの宗教として宣言するのである。
言語に関しても、自らの手で破壊し尽くした敵国ローマの言語であるラテン語を唯一の公用語として取り込み、その使用を帝国全土に強要する。ゲルマン人が、ヨーロッパの支配と引き替えに独自の宗教と言語を放棄したことの意味は、?後に考えることとし、ここでは、言語の放棄が女性恐怖を生む要因としても働いた可能性について触れておきたい。
言語に関しゲルマン人はルーン文字をもっていたというものの、それは呪いや祭りで用いるだけで、自分たちが古高ドイツ語という言語を使用している自覚さえまったくといっていいほど欠いていた。
たしかにこの時代までに言語を重要視していたのはローマ人だけであるから、ゲルマン人だけをあげつらうわけにはいくまいが、それにしてもローマに代わって支配権を握ったゲルマン人が、領土内に自分たちの言語を浸透させる努力をまったく払わなかった事実は、その後のヨーロッパ形成に大きく影響する。
軍事的支配はヨーロッパ規模で成し遂げておきながら、言語を浸透させ独自の宗教や文化を育む努力を完全に怠ったゲルマン人には、女性的な力によってすぐさま手痛いしっぺ返しがおとずれる。
そしてそれは、子育てと日常言語の担い手である女たちへの恐怖や憎悪、そして深い不信感を生むことになった可能性が高い。ヨーロッパの新たな支配者であるゲルマン人は、それがイタリア全土を支配下に治めたランゴバルド族であれ、スペイン地域を支配した西ゴート族やスエーベ族であれ、フランスを築いたフランク族であれ、制圧した地域に自分たちの言語と宗教を浸透させることにはまったく関心を払わなかった。
それは結果として、いくら当初の権力者がゲルマン人であれ、それらの男たちと交わった今日のイタリア、フランス、スペイン地域の女たちから生まれた子は、ことごとく母親が話す地中海文化の民衆言語、すなわち今日のイタリア語、フランス語、スペイン語に通じる言語で育つことになったはずである。
そうなると、父親が話していた古高ドイツ語に属する言語は、もともとゲルマン人の暮らす今日のドイツ語圏やオランダやイギリス、そしてスカンジナビア地域を除けば、たとえいかに今日あるヨーロッパ人の大半がゲルマン人との混血となったにせよ、次世代にはすでに地中海言語をを話すものたちによって占められるようになっていたであろう。
破壊と略奪しか眼中になかったゲルマン人自らが招いた宿命だとはいえ、制圧下にある地域で生まれた自分の子どもが、すぐさま母親の操る地中海言語を話し、もはや自分の文化や宗教を理解しない様を目の当たりにしたときの驚愕が、女性への深い戦慄へと発展したとしてもおかしくない。
引用ここまで***************************************************
Dへ続く |
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