@の続きです。
@では西欧文化の出自を古代ギリシア・ローマに求める怪しさと「女性恐怖と快楽敵視の思想」がキリスト教の影響ではなく、元々あった価値観がキリスト教の教義を変えさせた可能性について紹介しました。
今回は、古代ギリシア・ローマに「女性恐怖と快楽敵視の思想」の源泉があったのかどうかについて、引き続き論文を引用したいと思います。
女性恐怖のドイツ的起源
−ヨーロッパ文化史の再構築に向けて
リンクより
以下抜粋引用*****************************************************
U.古代ギリシア・ローマに快楽敵視が存在した証拠はない
たしかに古代ギリシアの哲学者アリストテレスは、女について、その本性が冷たく、無能力で精液をつくりだすことができないため、「まるで生殖力のない雄のようである」と述べ、女をより劣等な存在と見なす考えを打ち出した。
また、男の精液には生殖力だけでなく、「霊魂的原理の部分」も含まれており、そのなかこそ神に最も近い精神の作用である理性があるとし、精神と理性を最高位におく西洋的規範をはじめて明言したことでも知られる。
さらに「身体は雌に、霊魂は雄に由来する」と位置づけ、人間を動物と区別する精神が男にしか備わらないこと、そして女は肉体的な存在であるがゆえに蔑まれるという、のちにキリスト教に受け継がれる霊肉二元論の萌芽も示している。
しかし、これはあくまで生物学的にみた女性の劣位を論証しようとしたものであって、女性に帰属する快楽を恐れ敵視するものとは違う。この両者を混同し、すでにアリストテレスの時代に女性恐怖に基づく肉体的快楽への敵視が存在していたなどというものがいれば、それは全くの誤りだと言わざるをえない。
すでに広く知られるように、古代ギリシアからヘレニズムを経てローマにいたるまで、地中海文明の人々にとって肉体美は一貫して高い賞賛の対象であった。肉体に悪魔が宿るなどという考え方は、そこには微塵たりともみられない。
クレタ島では、上半身裸の男女が闘技場で雄牛を相手にアクロバット的な技を競うのを観衆は楽しんだし、ホメロスの時代以降、男たちが素っ裸で運動能力を競ったのは、文明が劣っていて着る服がなかったからなどではないことは、言うまでもない。
アテネでプラトンやソクラテス、そしてクセノポンが議論を闘わせた晩餐(シンポジウム)の席には、裸の美少年による給仕とさまざまな芸に長けた女たちの演出が欠かせなかった。
ローマの日常においても、肉体の顕示は罪とは無縁であり、なんら問題視されるものではなかった。奴隷市場で競りにかけられる奴隷たちは、男女にかかわらず公衆の面前ですべての衣類を剥がれ、病気などの兆候がないか評価されるのがしごく当たり前であった。
キリスト教が徐々に浸透しはじめる二〇〇年頃のローマにおいても、男にしか許されないミトラ信仰から閉め出された女たちだけが執り行うディオニュソスまたはバッカスの祭典においては、閉ざされた空間の中で女たちがミステリアスな快楽に浸り、官能の世界に酔いしれる伝統がつづいていた。
とにかくローマの時代までは、人間の裸体を罪や邪悪と結びつける倫理観が社会の規範をなすようなことはけっしてなかったし、むしろ支配者は、有名な「パンとサーカス」のことばで知られるように、領土を治めるためには大衆への快楽の提供が不可欠だと考えていた。
〜途中省略〜
大衆に娯楽を提供することを支配者がきわめて重要視していた様は、ローマ市内に限らず、ローマ軍が北方ヨーロッパへ領土を拡大する際、必ずといっていいほど制圧した地域に大浴場や劇場、競技場といった大衆娯楽施設を建設していることからも見てとれる。
もともとゲルマン人の攻撃から領土を守る前線基地として建設されたケルンやマインツやトリアーといった今日のドイツの都市には、かつてローマ人が築いた大浴場や劇場の跡が残っている。
紀元前五十五年、ドーバー海峡を渡りローマから遙か北方のブリテン島に侵攻したカエサルは、島の南部に豊かな温泉の湧く地を発見し、そこをバース Bathと名づけ浴場の建設を命じた。そして百年後には、さまざまな浴場にサウナからマッサージ室からスポーツジムまでも併設する一大温泉施設として完成するのである。
しかしローマ帝国崩壊後のヨーロッパをみるとどうだろう。上記のバースが十八世紀以降になってようやく、長く見捨てられてきた廃墟から復活しはじめるのに象徴されるように、五世紀以降のヨーロッパ人は一転して、浴場などには見向きもしなくなるのである。
アルプス以北にその重心を大きく移しながらも、ローマ帝国の精神をもっとも忠実に継承することを標榜した神聖ローマ帝国は、たしかに二つのことはローマから忠実に受け継いだ。
それらは、宗教、つまりローマ教会としてのキリスト教と、法律と国家制度である。しかし、かのコロッセオに匹敵する大闘技場はその後のヨーロッパにおいては、一つとして建設されることはなかったし、カラカラ浴場のような巨大レジャー施設がどこかで建造されたという話も聞かない。
いや、それどころか、ドイツ皇帝の支配する中世以降は、風呂にはいること自体が罪悪として忌み嫌われるようになり、王侯貴族でさえ一生に一、二度しか風呂に入らない時代が到来するのである。
そこには、宗教と政治は継承しながら、ローマが統治するうえで欠かせない要素と見なした「心地よいこと=快楽」を人民に提供する考え方に関しては、完璧なまでの断絶が見て取れる。このあまりにも対照的なコントラストは何を意味しているのか。
引用ここまで***************************************************
Bへ続く |
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