【資料】
@「■コーカソイドの部族移動」図解リンク
A「■Y染色体亜型の世界的分布」地図リンク
●1万年前から温暖化し、7800年前からは最温暖期に入る。
それ以前に、アナトリアやギリシアに居たのは黒人である。そこに1万年前以降、セム族Jやハム族Eが登場し、アナトリアやギリシアに移動してきた。
欧州に北上してきた原欧州人はI型(北方はI1、やや南方にI2)。巨石文化を築いたのも彼らである。その後やってきた印欧語族Rが欧州中心部を占め、Iは北欧や南欧の端に追いやられたというのが、Y染色体分析から見えてくる事実である。
北欧に追いやられたIはN(東南アジアで発生したモンゴロイドか?)と混血した。その典型がフィンランド。
南欧の端に追いやられたIを何人と呼ぶべきか?
現在のケルト人は印欧語を話すが、それは印欧語族に征服された結果であって、元々から印欧語をしゃべっていたわけではない。ケルト訛りがあることが印欧語よりも古い言語であることを示している。また、ケルト人は氏族共同体的な風習の名残を残している。このことから、ケルト人は印欧語族が侵入してくる前の原欧州人だと考えられる。
「ケルト人は印欧語族ではないか?」と混乱しがちだが、その混乱の源は、2000年前ローマ人がガリアにいた部族を「ケルト」と呼んだことにある。ローマ人が名づけた2000年前の「ケルト人」は印欧語族である。中心地のローマからみて辺境の全部族を野蛮人と総称し「ケルト人」と呼んだにすぎない。
逆に言うと、元々は「ケルト」という名称は、印欧語族の欧州侵入以前に欧州全域に広がっていた部族を指す呼称だと考えられる。従って、他に有力な証拠が見つかるまでは、印欧語族侵入前にいた原欧州人Iをケルト人と呼ぶこととする。
●イラン高原で登場したKが原シュメール人(黒人)。それがアナトリアに移動してセム族Jとハム族Eと混血し、6500年前の温暖期により肥沃なメソポタミア下流域に移動した。そして1万年前以前からメソポタミアに住んでいたウバイド人(黒人)と混血したのがシュメール人である。つまり、シュメール人とは、セム族Jやハム族Eの血が混じっているとは言え、ほぼ黒人であると考えてよい。実際、シュメール人は自分たちのことを「黒い頭」と呼んでいる。
しかし、シュメールは4000年前にセム族によって乗っ取られる。4380年前にシュメール都市国家にセム族が侵入。セム族がアッカド建国。4200年前にはシュメールが再び奪い返すが、4000年前にはセム族がバビロニア建国。メソポタミアのシュメール人は絶滅し、それ以降メソポタミア地方はセム族に支配されることになる。
生き残ったシュメール人が、彼らの植民地であるインダスへ流れていった(シュメールとインダスが頻繁に交流していたことから考えても、インダス文明があった現在のパキスタンは人口の90%がイスラム教徒になっていることから考えても、メソポタミア〜インダスは行き来が頻繁な地域であった)。このシュメール人とインド原住民の原モンゴロイドの混血がドラヴィダ人だと考えられる。
その後、ドラヴィダ人はインダス文明を放棄して拡散していった。学説ではインダス文明消滅の理由は乾燥化説や洪水説で、アーリア人に攻められたのではないという説が主流だが、もう一方に残る次の事実は捨象されたままになっている。
インダス遺跡の一つモヘンジョダロは「死者の谷」と呼ばれ、大量の死体が発見されている。皆殺しに近い殺戮があったわけだが、それはアーリア人の仕業ではないとすれば、誰がドラヴィダ人を殺したのか?
⇒それもシュメール人ではないか。
セム族に攻められ、メソポタミアで皆殺しにされて命からがら逃げ出したシュメール人が恐怖に駆られたまま植民地インダスに押し寄せてドラヴィダ人を皆殺しにしたのではないだろうか。 |
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