素人による創造
244340 特殊な能力について@
 
777 HP ( 33 岐阜 ) 11/01/20 PM09 【印刷用へ
内田樹の研究室(リンク)より転載します。



〜前略〜


これまでも何度も書いたことだが、自然科学の先端的な研究に従事している学者たちとお話するのはほんとうに面白い。
この数年のあいだに話をきいてどきどきした学者はほとんど全員「理系の人」である。
養老孟司、名越康文、池上六朗、福岡伸一、茂木健一郎、三砂ちづる、春日武彦、池谷裕二、仲野徹、岩田健太郎・・・
文系の学者で「話を聴いているうちに頬が紅潮するほど知的に高揚した」という人は、残念ながら一人もいない。
なぜか。
理由はいろいろあると思う。
一つは、理系の先端研究者は「なまもの」を扱っているということ。
養老先生は以前「情報」と「情報化」の違いについて教えてくださったことがある。
「情報」というのはすでにパッケージされ、その意味や有用性が周知されているもののこと。
「情報化」とは、「なまの現実」を切り出し、かたちを整えて、「情報」にパックする作業のことである。
文系の学者たちは、情報の操作には長けているが、「なまの現実」を情報化するという作業にはあまり関心がないように見える。
「なまの現実」というのは、端的に言えば、「生き死ににかかわること」である。
例えば、医療の現場では、そこに疾病や傷害という「なまの現実」がある。
それを手持ちの医療資源を使い回して「どうにかする」しかない。
「こんな病気は存在するはずがない」とか「こんな病気の治療法は学校では習わなかった」という理由で診療を拒むことは許されない。
とにかく何かしなければいけない。
池上六朗先生は患者が来たら「何かする」のが治療者である、とおっしゃったことがある。
「正しい治療」をするのではない。
「何かする」のである。
治療は「結果オーライ」だからである。
人間の身体のような「なまもの」は「正しい治療」をすればさくさくと治癒するというものではない。
「正しくない治療」をしても、治療者が確信をもって行い、患者がその効果を信じていれば、身体的不調が治癒することがある。
新薬の認可がなかなか下りないのは、「画期的な新薬」を投与したグループと「これは画期的な新薬です」と言って「偽薬(プラシーボ)」を投与したグループのどちらの患者も治ってしまうので、薬効のエビデンスが得られないからである。
その点では、現代人に呪術医療を侮る資格はないのである。
池上先生は大学病院が匙を投げた難病患者を受け容れたときに、することを思いつかなかったので、とりあえず「九字を切った」ことがあるそうである。
「臨兵闘者皆陣列在前」と唱えて空中で縦横に指を切ったら、患者は治ってしまった。
池上先生は患者が来たらいつも九字を切るわけではない。
そのときは「たまたま」九字を切りたい気分になったそうである。
治療者の資質はたぶんここに現れる。
「なまもの」相手のときは、マニュアルもガイドラインもない。
「なまもの相手」というのは、要するに「こういう場合にはこうすればいいという先行事例がない」ということだからである。
どうしていいかわからない。
どうしていいかわからないときにでも、「とりあえず『これ』をしてみよう」とふっと思いつく人がいる。
そういう人だけが「なまもの相手」の現場に踏みとどまることができる。
どうしていいかわからないときにも、どうしていいかわかる。
それが「現場の人」の唯一の条件だと私は思う。
私が知り合った「理系の人たち」はどなたもそういう「なまの現場」に立っている方たちである。
現場にとどまり続けるためには「わからないはずなのだが、なんか、わかる」という特殊な能力が必要である。
そのことを先端研究にいる人たちはみんな熟知している。
だから、その「特殊な能力」をどうやって高いレベルに維持するか、そのことに腐心する。
先に名前を挙げた方たちのふるまいをみていると共通点がある。
それは「やりたくないことは、やらない」ということである。
これは領域を問わず、先端的な研究者全員に共通している。
やりたくないことを我慢してやっていると、「わからないはずのことが、わかる」というその特殊な能力が劣化するからである。
どうしてだか知らないけれど、そうなのである。
だから、自分に負託された使命が切迫している人ほど「特殊能力の維持」のために、さまざまなパーソナルな工夫を凝らすようになる。
池上先生が水に潜ったり、三砂先生が着物を着たり、池谷さんがワインとクラシックにこだわったり、茂木さんが旅したりするのは、それぞれのしかたで「そうすると、自分の特殊な能力が上がる」ことがわかっているからである。
別に趣味でなさっているわけではないのである。
「やりたくないことは、やらない」という厳しい自律のうちにある人たちは、だから総じていつも上機嫌である。
上機嫌であることが知性のアクティヴィティを(「おめざ」のあんこものと同じくらいに)向上させることを彼らは知っているから、「決然として上機嫌」なのである。
オープンマインドとハイ・スピリット。
これが知的にアクティヴな人の条件である。
そういう人たちが「ダマ」になっている学術領域は「生きがいい」ところである。
不機嫌な人や、威圧的な人や、心の狭い人や、臆病な人や、卑屈な人がマジョリティを占めているような学術領域は「先がない」。
現在のその学術領域に配分されている予算や、大学教員のポスト数や、メディアへの出場頻度や、政府委員の数や、受勲者リストの長さなどとは何の関係もなく、「先がない」のである。
ある学術領域が「生きている」かどうかは、そのフロントランナーたちが「なまもの」を扱っているかどうかで決まる。
第一線に立つ人たちが、「それをどう扱っていいか、まだ誰も知らない素材」を扱っているかどうかで決まる。
私はそんなふうに考えている。




〜Aへ続く〜
 
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