実現論を塗り重ねてゆく
244240 縄文時代の定住文化は東北地方に結集した
 
田野健 HP ( 50 兵庫 設計業 ) 11/01/18 PM07 【印刷用へ
縄文時代の定住が具体的にどの地域で、どの程度の規模で始まったのかを現在明らかになっている考古学資料を元に見ていきたい。
ブログ「言いえて妙」リンクさんでうまくまとめている記事があったので紹介してみたい。

(まとめ)
縄文の定住跡は最古のものは1万年前の南九州に始まっている。
有名なのが9500年前の上野原遺跡だがそこでは約16棟の集団定住が認められている。その後、温暖化による落葉広葉樹林の北上に歩を合わせる様に定住の地域は関東、東北に広がっていき、東北で始まった8000年前には既に500棟の定住跡が確認されている。(もちろん同時代で併設したのはその内の1割〜2割程度だと思われるが、仮に50棟としても集団規模にして150人から200人になる)
定住を何をもって定義するかは難しいが、そこで単位集団を越えた広域の交流、さらにはその帰結としての共通の文化が発生している事をその条件とすれば、円筒式土器文化という北海道と東北地方を包摂する縄文時代の最初で最大の広域土器文化が認めらるこの時代(8000年前頃)が日本列島の定住の始まりと位置づけることができるのではないか。

ーー以下、抜粋ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
>旧石器時代の人々は、更新世の末まで、キャンプ生活・遊動生活を営みながら頻繁に移動生活を繰り返してきた。そして、旧石器時代から縄文時代への移行期である草創期には一時的に特定の場所で生活する半定住生活を送るようになってた。縄文早期(1万年前頃)になると定住生活が出現する。鹿児島市にある加栗山遺跡(縄文時代早期初頭)では、16棟の竪穴住居跡、33基の煙道つき炉穴、17基の集石などが検出されている。この遺跡は草創期の掃除山遺跡や前田遺跡の場合と違って、竪穴住居跡の数の大幅な増加、住居の拡張、重複した住居跡、これらの住居跡やそのほかの遺構が中央広場を囲むように配置されている。

加栗山遺跡とほぼ同時期(約9500年前)の鹿児島県霧島市にある上野原遺跡では46棟の竪穴住居をはじめ多数の遺構が検出されている。このうち13棟は、桜島起源の火山灰に覆われていることから、同じ時に存在したものと推定できる。そして、この13棟は半環状に配置されていることから、早期初頭には、既に相当な規模の定住集落を形成していたと推定される。

縄文早期前半(約9000年前)には、関東地方に竪穴住居がもっとも顕著に普及。現在まで、竪穴住居が検出された遺跡は65カ所、その数は300棟を超えている。そのうちで最も規模の大きな東京都府中市武蔵台遺跡では24棟の竪穴住居と多数の土坑が半環状に配置されて検出されている。

南関東や南九州の早期前半の遺跡では、植物質食料調理器具である石皿、磨石、敲石、加熱処理具の土器も大型化し、出土個体数も増加する。定住生活には、植物質食料、特に堅果類が食料の中心になっていたと想像されている。そして、南関東の定住集落の形成には、植物採集活動だけでなく、漁労活動も重要な役割を果たしていた。

一方、北に目を転じれば、北海道函館市中野B遺跡からは縄文早期中頃(8000年前頃)の500棟以上の竪穴住居跡、多数の竪穴住居跡、土壙墓、陥し穴、多数の土器、石皿、磨石、敲石、石錘などが出土し、その数は40万点にも上っている。津軽海峡に面した台地上に立地するこの遺跡では、漁労活動が盛んに行われ、長期にわたる定住生活を営むことが出来たと考えられる。
また、東海地方の早期の定住集落、静岡県富士宮市若宮遺跡は28棟の竪穴住居をはじめとする多数の遺構群とともに、土器と石器が18,000点ほど出土している。

移動生活から定住的な生活への変化は、もう一つの大きな変化をもたらした。その変化はプラント・オパール分析〈植物珪酸体の化石であるプラント・オパールから植物の種類を推定する方法〉の結果から推定できる。
一時的に居住する半定住的な生活の仕方では、周辺地域の開拓までに至らなかったが、定住的な生活をするようになった縄文時代人は居住する周辺の照葉樹林や落葉樹林を切り開いたことにより、そこにクリやクルミなどの二次林(二次植生)の環境を提供することとなった。

定住化によって、縄文人は、集落の周辺に林床植物と呼ばれる、いわゆる下草にも影響を与えた。ワラビ、ゼンマイ、フキ、クズ、ヤマイモ、ノビルなどの縄文人の主要で、安定した食料資源となった有用植物が繁茂しやすい二次林的な環境、つまり雑木林という新しい環境を創造したことになる。縄文時代の建築材や燃料材はクリが大半であることは遺跡出土の遺物から分かり、縄文時代の集落の周辺にクリ林が広がっていたことも確かである。
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