実現論を塗り重ねてゆく
242512 東胡、モンゴル高原の東方を領域とした狩猟牧畜民族の出自 (3)
 
TAB 10/12/20 PM01 【印刷用へ
 今度は別の角度から「胡」をみてみよう。

 中国中央テレビ局の編纂による『国家地理』のなかに、西遞村に1,100年間も暮らし続けている胡氏家族に関するリポートがある。その一節を紹介しよう。

 『国家地理』中国中央電視台

 胡姓の起源は非常に悠久であり、伝承では「葫蘆(ひょうたん)の内部に天地があり、その葫蘆から人の祖先が生まれた。この葫蘆は普通の葫蘆ではなく、中華民族の始祖とされる華胥氏(妣は女の先祖の意味)のトーテムで、華胥氏は我々の太古の時代の始祖の一人だが、彼女から生まれた子孫は、東胡族、西胡族、南胡族のごとく、すべて胡人と称した。樓胡になって崑崙山に還るが、みんな華胥氏の後裔である。

  鶏子と葫蘆の違いはあるが、これはまさに「盤古神話」である。古代苗族の神話にも葫蘆が登場し、新羅の蘿井伝説では、初代国王の朴赫居世(ボクカクキョセイ)王の朴は瓠(ふくべ=葫蘆)の意味で、卵が葫蘆のように大きかったので、その名にしたとされる。また、金氏の雉林伝説では、倭国から葫蘆を腰にぶら下げてきた大輔瓠公が登場する。

 葫蘆の文字に胡があることから、胡族が西方から伝来したものの一つなのだろう。

  太古、胡人は遊牧をしていたが、特に騎上での射撃が達者で、胡人の作る衣服は動きやすく、非常に戦闘に適していた。黄帝の時代、胡人の作る衣服は胡服と呼ばれた。

 戦国時代には皆が競って胡服を模倣したことから、趙の武霊王は衣服を騎射に適した胡服に改めた。胡人は非凡な知恵をもっていたと見るべきである。

 胡人が居住した地方には皆、胡を地名に付けている。現代地図でも、葫蘆河、壺口、湖丘、胡亭(葫、壺、湖、胡は同音)などがみられる。古代に於いては、諸侯を封じるのは胡の地名の付いた地域であり、?子国(?は胡の古字、子は尊称)と呼ばれた、 (中略)

 楚国に滅ぼされた後は、国名をもって姓としたことから、胡氏と呼ばれるようになる、また別の一族もある。周の武王が殷を滅ぼしたとき、武王は同姓の?胡氏を?子国に封じた。この?子国は後に楚国によって滅ぼされたことから、その子孫は胡に改姓した。

 胡人は漢化以後、大多数が族名を姓としたことから、多くの少数民族が後になって皆、胡氏に改名した。漢族の胡姓を除き、我が国の数多い少数民族のなかにも胡姓があり、現在、全国に千余万人がおり、中国第20位の大姓となっている。

 胡族の多くが漢化し、胡氏という胡姓を名乗ったことがよく理解できる。

 中央アジアの遊牧民族が羊を追って東進し、やがて黄河流域や長江流域に住み着き、生活基盤を定住農耕に転換したのが漢民族の興りとされるが、まさに古代胡族や古代羌族が漢民族の祖の一つであり、異民族というより、新参の移住者と言うべきかもしれない。

 東胡の詳細を示した史料も少なく、これ以上の探求は筆者の手に負えないので、東胡の最後を記しておこう(正史は要約のみ翻訳して本文に編集した)。

『冒頓単于』(〜前174)

 墨毒、墨突とも書く。在位前209〜前174。匈奴屠各種攣?氏の出身。頭曼単于の子。

 頭曼単于(ずまんぜんう)は、太子の冒頓(ぼくとつ)を廃して、末子に単于(国王)を継がせたかったので、冒頓を月氏に人質として送ってから、月氏を襲い、月氏の手で誅殺させようとした。だが、冒頓は月氏の良馬を奪って帰還してきた。

 万騎の指揮官となるや、軍律を徹底して強固な軍隊に成長させ、従わない者を斬り捨てて自分に忠実な軍団を作り上げた。そして、父を狩猟に誘って殺し、父に連なる大臣・諸弟を殺して自立し単于となった。その後の状況が史記に記載されているので要訳する。

『史記』匈奴列伝

 冒頓が王に立ったとき、東胡は強勢だった。冒頓が父を殺して自立したと聞くや、使いを冒頓に派遣して「頭曼の時代に得たという千里馬(名馬)を是非とも欲しい」と要求した。群臣は匈奴の宝だと言って反対したが、冒頓は平然と千里馬を東胡に与えた。すると今度は「冒頓の娘を寄こせ」と要求してきた。左右の重臣らは怒ったが、冒頓は平然と娘を東胡に与えた。さらに驕慢となった東胡王は「土地を寄こせ」と要求した。群臣のなかには「土地を与えるのも可、与えざるもまた可なり」と言う者達がいた。冒頓は大いに怒り「土地とは国家の基盤である。なにゆえこれを与えるのか」と言って、彼らを斬り殺した。

 
 冒頓は軍馬に乗り、国中に出動を命じ、遅参する者を斬った。遂に東の東胡を襲撃した。東胡も初めは冒頓を軽んじ戦備をしなかった。冒頓の軍隊が到着し、東胡を攻撃、東胡軍を大破し、東胡王を撃滅して、東胡の民と家畜を捕獲した。

 冒頓は国に帰還すると、西方の月氏を攻撃して逃走させ、オルドスに侵入して楼煩と白羊河南王を併合した。燕の代国に侵攻し、秦が蒙恬を派遣して匈奴から奪い取った土地をことごとく回収し、(劉邦の)漢を昔の河南長城で塞き止め、朝那、膚施に到って燕と代を侵略した。漢が兵を挙げ項羽と覇権を争う間に、冒頓は三十余万の兵力をもった。

  著者の司馬遷も漢王朝の官吏なので、劉邦の敗戦に関する記述を省略しているが、実際には、漢王劉邦の軍勢を白頭山で撃破して屈伏させ、漢王朝に歳貢の義務を課し、劉邦が亡くなると、呂太后に無礼な親書を送って辱めたという。

 烏孫・楼蘭ほか西域の二十六カ国を平定し、東西交易路の商業権を掌握した。匈奴の最盛期を誕生させた単于である。

 東胡はというと、東胡も匈奴に従属し、毎年大量の絹を献上することになり、匈奴の立てた東胡王を支配者として迎える植民地となった。ただ、その一部は大興安嶺に逃れ、鮮卑山と烏桓山に拠って、各々に鮮卑、烏桓として自立したとも言われる。

  漢王朝の元勲で、親子二代の親友でもある燕王「盧綰」が漢に叛いた陳?と通謀していたとの密告があり、高祖(劉邦)は樊?と周勃に盧綰を討伐させ、劉建を燕王に立てた。

 紀元前195年、盧綰は高祖が崩じたと聞くや、匈奴に亡命して冒頓単于から東胡王に任じられたが、その後すぐに病死した。この盧綰の事件で、燕にいた「満」は千余の兵を連れて東方に脱出。箕子朝鮮を打倒し、王険(平壌)に都を築き、衛氏朝鮮を立てる。

  後漢時代、強大になった鮮卑族によって匈奴は駆逐され、中国北方は全土が鮮卑の領域となり、同時に東胡も歴史から消えた。おそらく烏桓か鮮卑族に吸収されたのだろう。
 
  List
  この記事は 242511 への返信です。
  この記事に対するトラックバックURL  http://www.rui.jp/tb/tb.php/msg_242512
  ※トラックバックは承認制となっています。

[過去の記事へ]
[一覧へ戻る] [新しい記事へ]


◆実現論本文を公開しています。
 実現論 : 序  文
 第一部 : 前  史
 第二部 : 私権時代
 第三部 : 市場時代
 第四部 : 場の転換
 参考文献

 必読記事一覧
01 02 03 04 05 06 07 08 09 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28
大転換期の予感と事実の追求
実現論の形成過程
自考のススメ1.未知なる世界への収束と自考(1)
自考のススメ1.未知なる世界への収束と自考(2)
自考のススメ1.未知なる世界への収束と自考(3)
自考のススメ1.未知なる世界への収束と自考(4)
自考のススメ2.現代の不整合な世界(問題事象)(1)
自考のススメ2.現代の不整合な世界(問題事象)(2)
自考のススメ2.現代の不整合な世界(問題事象)(3)
自考のススメ3.自考力の時代⇒「少年よ、大志を抱け」(1)
自考のススメ3.自考力の時代⇒「少年よ、大志を抱け」(2)
1.これから生き残る企業に求められる能力は?
2.私権圧力と過剰刺激が物欲を肥大させた
3.市場の縮小と根源回帰の大潮流
4.共認回帰による活力の再生→共認収束の大潮流
5.自我と遊びを終息させた’02年の収束不全
6.同類探索の引力が、期応収束を課題収束に上昇させた
7.情報中毒による追求力の異常な低下とその突破口
8.大衆支配のための観念と、観念支配による滅亡の危機
9.新理論が登場してこない理由1 近代観念は共認収束に蓋をする閉塞の元凶となった
10.新理論が登場してこない理由2 専門家は根本追求に向かえない
11.学校教育とマスコミによる徹底した観念支配と、その突破口(否定の論理から実現の論理への転換)
12.理論収束の実現基盤と突破口(必要なのは、実現構造を読み解く史的実現論)
近代思想が招いた市場社会の崩壊の危機
新理論を生み出すのは、専門家ではない普通の生産者
現実に社会を動かしてきた中核勢力
私権時代から共認時代への大転換
市民運動という騙し(社会運動が社会を変えられなかった理由)
民主主義という騙し:民主主義は自我の暴走装置である
統合階級の暴走で失われた40年
大衆に逆行して、偽ニッチの罠に嵌った試験エリートたち
新理論の構築をどう進めてゆくか

『るいネット』は、47年の実績を持つ起業家集団・類グループが管理・運営しています。るいネットワーク事務局(Tel:0120-408-333, E-mail:member@rui.ne.jp