実現論を塗り重ねてゆく
242511 東胡、モンゴル高原の東方を領域とした狩猟牧畜民族の出自 (2)
 
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 そもそもアルタイ諸語とはアルタイ山脈からとった学術用語だが、蒙古の領域はアルタイ山脈の東部から広がっており、一部族が一言語とは限らないところに分類の難しさがある。

  東胡は鮮卑族の祖とされるが、鮮卑族の慕容氏を祖とする吐谷渾(とよくこん)の族人は羌族である。また、南北朝の北朝から唐朝に続く北魏王室は鮮卑族の拓跋氏だが、拓跋氏の言語は古代トルコ語である。民族や種族に執着せず、親族中心の部族単位で自由に進むべき道を選べたのかもしれない。

 古代、中国東北地方は粛慎(しゅくしん)地と呼ばれていたが、粛慎は民族名でも単一の部族名でもなく、そこを領域とする大小幾多の種族の総称であり、同様に、東胡も民族名や単一部族の呼称ではなく、その地域内に暮らす種族の総称だと推察する。

 『史記』趙世家

 王(武霊王)は公子成の家に往き、自ら述べた「(省略) 我が国は東に河水(黄河)、薄洛津(?水)があり、斉や中山も同じだが、これに備えた船団がない。常山から代に至るまでに上黨、東に燕や東胡の国境があり、しかも西には樓煩、秦、韓の辺境があるが、今は騎射も用いられない。船団の備えもなく、それに用いる人も少なく、水辺に住む民族が来襲すれば、何をもって河水、薄洛津を守るのか(集解で徐広が言うには「安平経県の西に?水あり、河川名は薄洛津」。正義では「安平県は定州に属す」)、衣服を変え、騎射(の技術を学び)、もって燕、三胡(林胡、樓煩、東胡)、秦、韓の辺境に備えるべきである。

  これは戦国時代の趙の武霊王が、胡服騎射の採用を説得する有名な故事の一節である。

 長文なので全訳を載せなかったが、中国古来の戦闘方法は、馬に二輪戦車を牽かせて戦う戦車戦であり、騎馬戦など念頭になかったことから、中国王朝では裾の長い服を着ていた。

 武霊王は強力な北方民族の騎馬兵の衣服や射撃術に着目し、自国の軍隊にも採用したいと考えたが、中華思想の浸透した当時、野蛮人を見習えというのは、野蛮人になれと言うのに等しく、猛烈な反発に遭った。それを武霊王は粘り強く重臣たちの説得を続け、遂に採用に成功する。紀元前307年のことである。これによって趙は強力な騎馬部隊を有することになり、騎馬隊の威力を発揮して趙の勢力は一気に拡大することになる。

 紀元前273年、恵文王の時代になって、遂に東胡を討ち、東胡から欧と代を奪い取った。胡服騎射の採用が成功したのである。

 『史記』匈奴列伝

 而して趙の武霊王もまた胡服の風俗に変えて、騎射を習い、北に林胡と樓煩を破った。代を併せて陰山の麓から高闕まで長城を築いて塞いだ。そして雲中、鴈門、代郡を置いた。

 その後、燕に秦開という賢將がいた。胡(東胡)で人質となっていたが、胡は彼を甚だ信用した。彼は燕に帰還するや、(軍を率いて)襲撃して東胡を敗走させ、東胡から千余里の土地を奪う。荊軻(けいか)と秦王の暗殺に同行した秦舞陽とは秦開の孫である。

 燕もまた造陽より襄平に至る長城を築き、上谷、漁陽、右北平、遼西、遼東郡を置いて、胡の侵入を拒む。
 当時の一里は約450m。燕は東胡から約450qの土地を奪ったことになる。これが胡を東に走らせたと訳せば、河北省から遼水(遼河)を越えた襄平(じょうへい)までを奪取したことになる。だが、それだと遼西(遼水の東西)地域までも東胡の領土だったことになり、 この記事にいう東の胡とは、東胡ではなく、朝鮮のことではないかと疑問に感じる。

 『三国志魏書』馬韓伝

 魏略に曰く「昔、箕子この後に朝鮮侯となる 周の衰退が見えると、燕は自ら王と尊号し、東の地を侵略しようとした。朝鮮侯もまた王を自称し、周室の尊厳をかけて、兵を興して燕を迎撃しようとした。その大夫の禮がこれを諫言し、止めさせた。禮を西に使者として派遣し燕を説得した。燕は進軍を止め、攻撃しなかった。後に子孫が少し驕慢で暴虐になったことから、燕は将軍の秦開を派遣して朝鮮の西方を攻め、二千余里の土地を奪い取り、満番汗を国境と定めた。朝鮮は遂弱した。

  ここにも秦開が登場するが、国境が襄平から滿番汗(まんばんかん)に変わっている。

 これでは遼河を越え、鴨緑江、清川江も越え、大同江まで達している。距離的には二千余里(約900km)というのは整合するが、東胡から奪った土地と位置が重複する。ただし、東胡から北方の地を奪ったのであれば重複はしない。

 だが、それでは北方に千里(約450q)の土地を奪ったことになる。燕長城は河北省北辺を延びており、そこから南に約450q下がれば燕の領土を突き抜けてしまう。奪ったという表現は、それほど遠くに東胡を追い払ったという象徴的な数字なのだろう。

 『史記』匈奴列伝

 この当時(秦時代)、東胡は強勢で月氏も隆盛期にあった。匈奴の単于(国王)は頭曼というが、頭曼(ずまん)は秦に勝てず北に移住していた。十余年の後、蒙恬が死に、諸侯は秦に叛き、中国は擾乱となり、秦に土地を移され、辺境を守っていた者が皆、適宜に故地に戻っていったことから、匈奴は自由を得て、再び河南に渡って中国国境となっていた長城を越えた。

  戦国時代、燕の秦開将軍に退廃したはずの東胡が、秦開の孫の代には強勢になっている。

 ただし、紀元前206年には頭曼単于の息子によって滅ぼされ、東胡は歴史から消滅する。

 遊牧民族の部族連合国家の常として、偉大な統領が登場すると瞬く間に全部族が団結して勢力を拡大するが、その統領が死ぬと結束が乱れて一挙に弱体化する。東胡も匈奴も典型的な部族国家で、中国王朝式の国家体制を確立していなかったようだ。
 
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