実現論を塗り重ねてゆく
241560 1. インダス文明はいかにして成立したか
 
小圷敏文 ( 壮年 大阪市 勤め人 ) 10/12/02 AM00 【印刷用へ
[インダス文明はなぜ滅びたのか]について、「後藤健:インダスとメソポタミアの間」(NHKスペシャル 四大文明 インダス)を図版入りで紹介しているサイトがありますので、引用紹介します。


−−−−−−−−−−〔引用開始〕−−−−−−−−−−

1. インダス文明はいかにして成立したか

【前略】

まずもって、この文明の担い手がよくわかっていない。ただ、旧ソ連とフィンランドの研究グループが、それぞれ独自にインダス文字をコンピュータで解析した結果、ドラヴィダ語系統ではないかという同じような結論を出しているので、現在はインド南部からスリランカ北部にかけて存在するドラヴィダ人がBC3500年頃イラン高原東部からにインド北西部に移住してインダス文明を造ったというのが最も有力な説となっている。

しかしドラヴィダ人が、自力でインダス文明を造ったとは限らない。インダス文明の都市は、排水路が完備した計画都市で、道幅やレンガの規格が統一されている。しかしそれ以前に先史農耕文化があったとはいえ、都市を建設するまでの試行錯誤の跡がなく、あたかも高度に洗練された人工都市が突如として出現したかのようで、自力で造ったにしては不自然である。

後藤健によると、インダス文明の都市設計に関与したのは、イランに存在したトランス・エラム文明である。この文明は、もともと図1に示されている通り、スーサを首都に置き、メソポタミア文明から穀物を輸入し、東方で採掘した鉱物を輸出していた。後藤は、これを原エラム文明と呼ぶ。
 
図1 紀元前3000年頃の原エラム文明による交易のネットワーク
[後藤健:インダスとメソポタミアの間,NHKスペシャル 四大文明 インダス, p.181]リンク

ところが、紀元前27世紀の末、シュメール人の都市国家の一つであるキシュに首都のスーサを奪われてしまい、エラム文明は、首都を奥地のシャハダードに移転する。新しいエラム文明は、メソポタミア文明との交易を続けながらも、新たな穀物の輸入先を求め、インダス川流域に、第二のメソポタミア文明を現地人に作らせたと考えられる。事実、この国の特産品であるクロライト製容器が、インダス川河口付近の湾岸やモエンジョ・ダロ遺跡の下層から見つかっている。このことは、インダス文明成立以前に、トランス・エラム文明の商人がインダス川流域を訪れ、交易を行ったことを示唆している [後藤健:インダス・湾岸における都市文明の誕生,都市と文明, p.63-85]。
 
図2 紀元前2600年頃のトランス・エラム文明による交易のネットワーク
[後藤健:インダスとメソポタミアの間,NHKスペシャル 四大文明 インダス, p.181]リンク

物資を運ぶには、陸路を通るよりも、河川や海などの水路を使う方が便利である。そのため、やがてトランス・エラム文明は、ウンム・アン・ナール島、さらにはバーレーン島に進出し、水路ネットワークを活用するようになった。陸路が衰退することで、インダス文明は最盛期を迎える。

図3 紀元前2300年ごろのウンム・アン・ナール文明による交易ネットワーク
[後藤健:インダスとメソポタミアの間,NHKスペシャル 四大文明 インダス, p.187]リンク

しかしながら、インダス文明は、決して他律的に形成されたわけではない。現地人には、都市文明を作らざるをえない事情があった。所謂四大文明は、BC3500年頃のヒプシサーマル期終焉に伴う北緯35度以南の寒冷化と乾燥化が人々を大河に集中させることで発生した。インドの乾燥化と寒冷化は、BC2300年ごろからとやや遅く、その結果、インダス文明は、メソポタミア文明よりもスタートが1000年以上遅くなった。メソポタミアの都市を長い歴史を持つ東京の下町に喩えるならば、インダス文明の都市は多摩ニュータウンである。後発ゆえに、先輩の都市建設・都市問題の知識を学んで、理想的な計画都市を造ることができたのである。

インダス文明の都市遺跡には、メソポタミア文明をはじめとする他の文明の都市遺跡におけるように、強大な権力の存在を示す大宮殿や大神殿などの遺跡がないが、このことは、インダス文明に指導者がいなかったことを意味するわけではない。高官の邸宅、高僧の学問所、集会所とおぼしき公共性の高い建物跡ならある。モヘンジョ・ダロには、階段つきの大浴場の遺構がある。現在でも南インドの寺院には、沐浴のための施設が付属しているので、宗教的な用途のために使われた可能性が高い。

以上から推測できることは、インダス都市文明において指導者としての機能を担ったのは、軍事力はないものの、メソポタミアやアラブ湾岸の先進文明の知識を持ち、かつ宗教的カリスマ性のある人物ではないかということである。

−−−−−−−−−−〔引用終了〕−−−−−−−−−−

136030 シュメール:ウバイト期の祭祀統合社会(1)
136031 シュメール:ウバイト期の祭祀統合社会(2)
136752 ウバイド終末期に「よそ者」が進出、防御施設が出現し次いで
    ウルク期に本格的な武器が登場する 
136772 ウバイド終末期にシュメールによる交易ネットワークが構築される

で展開されているように、「ウバイド文化の拡散は祭祀ネットワークによっていたが、ウバイド終末期に新たな経済的物流が芽生えたのである。」(*ウバイド期は、シュメールの紀元前5500年〜4000年の時代区分)

紀元前3000年頃の前哨基地は原エラム文明の首都であるスーサで、紀元前2600年頃にはトランス・エラム文明の首都であるシャハダードに、紀元前2300年ごろにはウンム・アン・ナール文明の首都であるウンム・アンナール島に移行していく。それは、交易のネットワークが陸路から海路へと変遷していく歴史でもあった。

これらのことから、
241271 ドラヴィダ人はシュメール人から派生しているのではないか?
241403 インドの民族〜ドラヴィダ人はシュメール人とどの民族の混血か?

が真実味を帯びてくる。

続く


【引用サイト】
永井俊哉ドットコム(リンク
「インダス文明はなぜ滅びたのか」(リンク
 
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