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「自分発からみんな発への転換」、具体的な問題を考える際に、自分発の思考とみんな発の思考ではどのようなところが違っているのだろう。
例えば、常にチームの和を言動によって乱す人がいるという問題を考えてみると
常にチームの和を乱す人に、言動の何が問題(私益のみを考えている場合が多い)で、チームの和を乱していることを指摘し改めてもらおうと考えがちですが、
他方、常にチームの和を乱す人に対して、周りの人が日常的になんの指摘も行っていない(闘争忌避の場合が多い)という問題が同時に存在しています。
前段の場合
対象はあくまで「常にチームの和を乱す人」単独。よって、接触は「常にチームの和を乱す人」単独になる。その人に単独接触しても共認圧力が作用せず、言い訳・誤魔化しのオンパレードで、改まる可能性が低く(表層的な反省)、仮に改まったとしても一時的なもので、次に出てくる「チームの和を乱す人」には全く対応できない。
さらに問題なのは、管理者が一時的な改善で自己満足してしまう可能性が高い。問題の本質が解決していないため、もぐら叩きの様相を呈する状況に陥ってしまうところだと思います。
ここで(一時的に)充足しているのは管理者のみ。「常にチームの和を乱す人」の言動は一時的に減ずるが、自我の抑止力が常に働かないためいずれ再発する。結果、チームの成員は充足しない。
⇒自分発の思考
後段の場合
一気に対象が「チーム全員」に広がる。対象が「チーム全員」となるため、必然的に全員と話し合いの場を持つことになる。これまた必然的に「常にチームの和を乱す人」の実例を扱うことになり、「常にチームの和を乱す人」に共認圧力が作用し、言い訳・誤魔化しが通用しなくなる。
同時に全員の根底にある闘争忌避を表出させ、みんなに改めてもらうことによって(共認することによって)、次に出てくる「チームの和を乱す人」の芽を摘むことも可能になる。
ここで充足するのは管理者のみならず、全員が充足する可能性が高く。かつ、「常にチームの和を乱す人」に日常的に共認圧力が作用するため、改善の方向に進むことになる。(いずれ、自分の言動が問題であったことに気がつく)
⇒みんな発の思考
「自分発の思考とみんな発の思考」との違いは、充足して頂ける対象の広がりが全く違うこと、様々な問題に対して、導き出された方針が「全対象が充足しているか」を検証する必要があることを再認識しました。 |
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