>習わぬ経を読んだ門前の小僧のように、まずは耳からありのままに吸収する。後はその後の人生経験の中で自ずと意味がわかってくるというのが本物ではないのか。
>デジタル記号たる言葉(特に文字)を本能・共認回路に意識的に結びつける必要があり、その回路が観念回路である。その回路は一度繋がったくらいでは定着しない。1000回は反復しないと定着しない。
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観念力を身につけようと思い、2週間前から始めた実現論暗唱会。1000回にはまだまだ遠く及ばないですが、漸く100回が目前となりました。この節目を機に改めて始めた頃から今までの変化を整理してみた。
◆はじめたての頃
始めの数回は本を見ながら斉唱。みんなと声を合わせる心地よさがあって、とても眠たくなる感じだったのですが、どうも文字を目で追っていると、逆にみんなと声を合わせるのが難しく、声を合わせる心地よさを得るには、本を見ないほうがいいのかなと思い、5回目位からは本を閉じました。
◆10〜20回目
本を閉じた途端、頼りになるのは周りの声と目の前にいる方の口の動き。他の方の感想にもあるように、この時はまさに赤ん坊が目の前の母親に同化する心境と同じで、全神経がそこに注がれていました。斉唱が終わった後、赤ん坊のような目をしてましたね、といわれましたがまさにその心境でした。
◆20〜30回目
この段階になっても、一人では喋れないので、相変わらず頼りになるのは周りですが、それまでは目前の母親しか注視できなかったのが、周りにも目を向けられるようになってきました。たくさんの母親と父親がいる大家族に囲まれている感覚で、親戚一同が集まって可愛がってもらっていた幼少期を想い出していました。
◆30〜40回目
この段階になってくると、幾つかのフレーズは喋れるようになってきて、自分も一緒に声を合わせることが出来る楽しさが出てきました。子供が大人の真似っこをして、遊んでいる感覚に近く、”充足”というよりも”楽しい”という表現の方がしっくりくる感じです。
◆40〜50回目
この段階になってくると、声を合わせる事も段々安定してきて、自分もみんなのように周りを導いてみたいなと思うようになってきました。声も少しずつ大きくなっていき、口の動き方や抑揚を意識するようになってきました。
◆50〜60回目
もう概ね暗誦できるようになってきたので、この頃からは相手の口を見るのを止め、相手の目を見れるようになってきました。そうすると、それまでの頭と目で言葉を喋っていた感覚がなくなり、自分が喋っているのか解らなくなるような自ずと言葉が出てくる感覚が出てきました。
◆60〜70回目
完全に目を合わせるようになってからは、喋れる喋れないという意識はもう関係なくなって、相手の表情や気持ちがそのまま伝わってくることへの充足が中心になってきました。振り返るとはじめは赤ん坊だった自分もこの頃はもう既に大人の男になったという意識で、周りとの同化を強く感じるようになってきました。
◆70〜80回目
相手への同化が強まるに従って、この頃からは相手への感謝と謝罪の気持ちが出てきました。皆で同じ言葉を斉唱しているんだけど、意識は皆への色んな想いが出てきて、「あの時は否定してゴメンね」「でも本当に立派に成長したね」というような気持ちがでてきました。
◆80〜90回目
そんな相手への同化をしているうちに、言葉、観念とは共認充足を得るためにあるのだなと考えるようになってきました。ただ同じ言葉を喋る。そこに充足があるのだと。と同時に、共認回路と繋がった観念ってこういうことなのかとも感じるようになりました。具体的に語彙が豊富になった訳でもなく、文章構成力が上がったという実感もまだありませんが、共認回路と繋がった観念が定着していくことに意味があるのだと考えるようになりました。
◆仕事場面での効用
元々人が好きで、客先も社内も含めて周りと共認形成をはかっていくのは得意でしたが、それでも相手に同化しきれない事やついつい目先の言葉に振り回されることは今でもあります。ただ、斉唱会を始めてからは、まず真正面にこちらの思惑抜きに受け入れる余裕ができてきたように思います。相手が話している時に、どう返答しようか、それをどう翻訳するか等、それまでは色んな事を考えていましたが、今はあまり急いで考えるよりも、まず受け止めさえすれば自ずと発すべき言葉がでてくるような感覚があります。
また、共認と繋がった観念を強く意識するようになり、言葉への拘りが強くなってきたようにも思います。回りくどくなく単刀直入に言いたい。もっと皆に響く言葉でいいたい。そんな気持ちも強くなりました。
今後ここからどうなっていくのか。というのはあまり深く考えすぎずに、とにかく今は暫く続けて見ようかなと思っています。 |
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