去年の10月から、同じ会社の人が病気で入院しています。
それまで毎日元気に顔を合わせていたのに、突然病気がみつかって緊急入院となり、今に至ります。
私を含め社内の人たちは、時間を作って何度かお見舞いに行ったり電話で近況報告をしたりしていますが、以前その人から「自分はみんなにこんなにしてもらうほど何かしてきたとは思えない。ありがたいけど申し訳ない気持ちでいっぱいになる。」と言われた時、何と言葉をかけていいかわかりませんでした。
私は入院がきっかけで連絡先を知ったくらいで以前から格別にその人と親しかったというわけではなく、特に何かをしてもらった出来事もないけれど、これまで毎日みんなと一緒に働く生活から病院での個室生活になって寂しいだろうし、今後の不安や悩みを開きだして少しでも元気でいてほしいというだけだったから、改めてなぜ?と聞かれると納得する返答ができませんでした。
でも久々にこの投稿を見て、自分が何を求めて、何を充足源として、面会や電話でのやりとりを継続しているのかがわかりました。
自分が相手の病気に対して無知で無力だと自覚しているから、共認治癒力に望みの全てを賭けているのです。
私は同じ共同体の仲間としてこれからも一緒に戦っていくために、相手に病を治して戻ってきてほしいと期待している。
おかれた状況を冷静に分析し、退院後の充足イメージを抱いてひとつひとつ課題をクリアしていく相手が頼もしく、さらにいい男になってみんなのために闘ってくれると期待している。
相手は共同体から離れてみんなと距離的・意識的に断層が発生することを恐れ、役割欠損に陥りかけていた。そして不全を揚棄するためにみんなとの繋がりを求め、戻ってきてほしいという期待に応えるために、みんなからもらった充足のお返しをするために、日々前を向いて病気と闘っている。
私たちは互いに依存し期待し合い、応え合い、共感充足していました。
極限時代の弱オスたちと同じでした。
先日、手術前の最後の面会に行くと、彼はとても穏やかで何か吹っ切れたような表情をしていました。私が来る2日前に会社の人たち4人が面会に来て、みんなで手を握り合ったそうです。
「最初は恥ずかしくて落ち着かなかったけど、見つめ合って手を握っていると、みんなに対して申し訳ないという気持ちより、ただありがたい気持ちが大きくなってきた。」
「みんなからの恩をどうやって返したらいいか悩んでいたけど、早く復帰して今まで以上にみんなの役に立っていくしかない。退院したらみんなでおいしいもの食べていろんなところに行きたい。」
と伝えてくれ、私の手も握ってくれました。
手術がうまくいく確証はなく、無事成功しても再発する可能性の高い病ですが、みんなとの共認治癒力によって回復し今まで以上に闘ってくれると確信しています。
手術を乗り切りその後の回復を早めるために、退院後のリハビリが短期で済むように、体力をつけておかなくてはと筋トレに励んでいる姿が頼もしくありがたい気持ちでいっぱいになり、
『彼が安心して戻ってこられるような基盤をみんなで整えて待っていよう。私たちが共認動物でよかった。』
とこの日切実に思いました。 |
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