求道者は人々の役に立つための答えを追及する一方で、解釈者は自身の解釈こそが至上のものだと信じて疑わない。この違いはどこから来るのだろうかと劇場後のサロン、ここ最近で考えた。
求道者とは「答えの供給者」である。そのために師の教えをたたき台にすることさえ厭わない。彼を突き動かすのは只々みんなの期待に応える、そこから得られる充足感で、全てはその手段でしかない。
一方解釈者や多くの近代思想家に見られるのは、自らの解釈がいかに優れているか、自らの構築した世界観がいかに素晴らしいか、奇抜であるかといった「価値」という部分である。価値観念の構築、その対立と闘争といった有様である。
この「価値観念」というものが、彼らに潜む邪心言わば自我を投影しているような気がしてならない。現実は捨象され、自らの理論・自らの解釈こそ至上であるという主張の背景には、自分こそが至上であるという評価欠乏、そのための理論立てという病が見えてくる。
「みんなの役に立ちたい」という想いがあれば、誰でも求道者になれる。ならば求道者とは只一種類の人間だけを指すものではないだろう。答えを求めること・期待をかけること・答えを評価すること、多くの役割それら全てが旧観念や騙しとの決別そのものなのだろうと感じる。「道はみんなで作る」という点、現実通りである。 |
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