潮流2で、新たな気付きを得たので報告します。
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>戦後も、私権統合の社会であることに何の変わりもなかった。しかし、その間に、恋愛と消費に支えられたマスコミ権力が強固に根を下ろしてゆき、マスコミの共認権力は、資本権力に迫る勢いを示し始める。(中略)
戦後も、混乱期は資本権力の方がマスコミ権力より強いが、’50年代・’60年代と社会が安定してゆくにつれて、次第にマスコミ権力が資本権力に拮抗する力を持ち始めてゆく。(213551)
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マスコミは、もともと世論操作という有無を言わさない権力を保持していましたが、社会の混乱期においてはみんなが私権に収束していたため、私権が強く共認されておりマスコミの言い分は見向きもされませんでした。
それから、社会は安定期に入り、みんなが私権に収束しなくなると、共認欠乏が生じます。「私権収束するよりも、共認収束したい!」というみんなの欠乏を的確に捉えたマスコミは、共認権力の行使を開始します。
これは、マスコミが急速に権力を持ち、大衆の支配を始めたということではなく、社会の混乱→安定→再度の混乱というプロセスの中で徐々に行なわれてきた共認権力の行使です。
混乱期と安定期、それぞれに可能性収束し適応してきた私たちにとって、マスコミのいいかげんな共認権力(非事実共認)の行使には違和感を感じる事しかできません。 |
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