科学に関しての、あるいは事実に関しての議論は重要であり、遠回りのようでも避けて通るべきではないというのが私の考えです。事実を重視するということに関しての姿勢は、絶対にはずしてはいけないと考えています。
まず、誰もが認める現象や実験観察の結果を基礎事実として取り上げます。現象論の世界で事実を明らかにするという立場を第一に貫く必要があります。これは複雑系研究の場合のアプローチも同じでしょう。しかし、こここで確かに基礎事実といったとたんに既に二つの危険性を帯びてしまいます。
まず、その事実ですら、観察者の認識や考え方、さらにはそれに影響を与える背景としての社会的な思想によって左右される危険性があります。だから、徹底的に固定観念やイデオロギーを排除する必要があるのは言うまでもありません。
次に、逆の問題があります。それを事実と認めるその主体の問題があります。誰が認めるのかという認識されるカテゴリー(共同体社会)の問題があります。例えば専門家集団(専門家共同体)において認められた事実でも、つまり専門家が事実といっても実は一般人にとってはよく分からない場合があります。(例えば、素人がレントゲン写真で見せられて説明されてもそうですかとしかいえない)。つまり専門家の事実といっても、外界と専門家の眼とそして専門家の前提的知識との相互作用によって初めて「作り出されたもの」が多くあるでしょう。事実は専門家固有の理論(定説)によって作られる危険性すらあります。
つまり、専門家集団の認識と一般人社会の認識とがずれる危険性(複式構造)があるということ。とりわけ科学が「自然や社会など世界のある特定領域に限った法則的認識を目指す合理的知識の体系または探究の営み」であるならば、それは普遍性のある事実とは言えないでしょう。万人が知っている限りの知識に照らし合わせて整合しているという総合的な論理整合性こそが、専門分化された科学の独り善がりの独走を制御するものであると考えられます。
現在、私達はみんなが認める事実の体系を作ろうとしています。そのためには基礎事実が必要です。しかし、この事実そのものが極めて怪しいものが多いというのが、実感です。それゆえに、「基礎事実」(とりわけ実験や定説)の前提条件・前提認識を今まで以上に明らかにする必要があると考えます。前提条件が明らかにされ一般人が納得できるものは事実として進めていけばよいのではないでしょうか。
例えば、生物学においては、はっきりとこうだと言えるような基礎事実があまりに少ないようです。だから、少ない事実の中から整合する仮説を打ち出し、それを否定する基礎事実やより整合性の高い別の反対の仮説が登場しない限り、その仮説を正しいとして議論を進めていけばよいのではないでしょうか。 |
|