「働く事」と「やりがい」について、皆さんの投稿を読んで今日的な問題として、本源潮流の状況認識と可能性について提起します。
市場社会においてそれが今日のような飽和状態を迎える前は、就職するにせよ起業するにせよ、「働く」は「お金を手に入れる」と一体の行動指針であったと考えられます。それは、その前提が「生きるため、豊かになるには当然、働き稼がなければならない」と考えられて、規範とされていたからです。
しかし今日では、パラサイトとよばれる若者がふえ、「何のために働くのか?」を改めて問い直す必要があるほど、かつての規範はなくなり「自分がやりたいこと」や「やりがい」が求められています。
今後の状況に適応可能性を感じられない旧体質企業への忌避感から働かないか方もあるようですが、一方で公務員などの安定志向や、旧体質そのもののマスコミ会社への人気も衰えていません。また投稿で指摘されているように、楽をしたいが為に言い訳として「やりたい事がない」と言われる状況もあるようです。
これらを総合的にみると、貧困圧力が消滅していった事で、私益確保が第一とか、それしか考えられない状況は無くなり、それに替わって「やりがい」に代表される「役に立つ事の充足」が実体として活力源になっています。しかし問題は、それにもかかわらず頭の中は、「自分の為にがんばるのが当たり前」という旧来の固定観念にしばられ、「皆のためにがんばる」のは古い理想にすぎないとか、社会ではありえないと思いこまれているようで、働く動機としてはまだ真正面からとらえられていないのです。そこで「社会貢献が自分の為になる」とか「本当に自分がやりたいことをやれば皆の役に立つ」など混線した発言が現れていると考えられます。
一部には、働くのは「自分のためとしか考えられない」と完全に固定化してしまった方もありますが、これはもはや居直りであって展望があるとは考えられません。
私達が本源潮流として、また新しい社会の基盤として期待できるのは、起業するにしても、とりあえず働ける場があればそこで働く方があるにせよ、「働くのは自分の為」としか考えられない固定観念に縛られずに実体として「役立つ充足」を立脚点にされていることではないかと考えます。
もう少し論理的にいうなら「自分のため」を活力源とする私権社会の発想は現実の活力源とリンクせず空回り、空焚きに終始しています。しかし本当はサル以来の歴史が示すように、私達は自分の為に生きるだけの存在ではなく、自分を中心とした自我の活力の対極にある「集団を対象とした活力源」をもっているのですから、認識を切り替えれば、それが機能する仕組みを作りだすことができるはずです。
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