暴走する悪徳エリートの所業
226994 「報道の自由」憲法にない1
 
彗星 ( 中年 ) 10/02/22 PM08 【印刷用へ
【政治の季節【稗史(はいし)倭人伝】より『憲法に書いてない「報道の自由」…小沢報道をめぐって(リンク)』と題しての記事を転載します。
-------------------------------------転載
日本国憲法には、「報道の自由」という言葉はない。言葉だけではなく、その概念すらない。

マスコミは大きな誤解をしているようだ。報道の自由とは、嘘を言ってもいい、デタラメを書いてもいいという意味ではない。

多くの人が、憲法によって保証されていると思いこんでいる「報道の自由」はメディアがでっち上げてきた、虚構の上の幻に過ぎないのではないか。
確かに、憲法の条文に書き込まれていない権利も次第に拡張されてきてはいる。
憲法条文の延長線上に環境権という概念が生まれ、「知る権利」が認められたりする。
しかし、条文に直接書いてないということが、その権利の定義の曖昧さ、強制力の弱さを克服できない大きな原因の一つなのではないか。
条文に書いてないということが、「報道の自由」そして「報道」そのものの本質論がこの国で一般化しなかった、そして深化しなかった原因の一つなのではないか?
それがこの国に、まっとうなジャーナリズムが育たなかったことの原因なのではないか?

「報道の自由」の根拠をどこに見つけるか?
「知る権利」から「報道の自由」が派生する、と考えることもできようが、「知る権利」自体が憲法条文にはない言葉である。
そしてそれはあくまでも情報を受け取る側の権利であり、情報の発信者の権利ではない。
この場合情報発信者側に生ずるのは、権利ではなく、国民の知る権利に答える義務であるということになる。
しかしその義務は公的機関に対してはあてはまるが、民間の営利企業であるメディアには押しつけられることではないだろう。
精々、道義的あるいは職業的良心とでもいうところにそれを求めることがてぎるというものであろう。
ただし、国民の「知る権利」が認められるならば、公的権力はそれを妨げるような報道弾圧・妨害をしてはいけない、ということになる。
メディアは、国民の「知る権利」に応えるという一点においてのみ、「報道の自由」を主張することが許される。

●日本国憲法
第21条 集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。

「報道の自由」の根拠は一般的にこの条文に求められているようだ。以前取り上げたことがあるが、この条文のアメリカ進駐軍による草案は以下のものである。

Article XX. Freedom of assembly, speech and press and all other forms of expression are guaranteed.

草案では assembly,speech and press and all other forms of expression となっているのが、日本国憲法では、「集会、結社及び言論、出版その他一切の表現」の自由というふうになっている。
憲法の「結社」という言葉がなぜ入れられたのかは専門家にでも尋ねてみなければ分からない。単に、assembly を「集会、結社」と訳したのかもしれないし、何か別の意図があったのかもしれない。speech が言論となっているのには問題はなさそうだ。もう一つが press である。これが「出版」となっている。

press 新聞、新聞界、雑誌、出版物、報道機関、記者

これも単に「出版」という訳語を選んだだけなのか、別の意図があったのかは分からない。「出版」でも「報道」でも同じことだと考えたのかもしれない。

そして日本国憲法施行後ほぼ60年が経った。時代の変化が怪物を生み出した。テレビである。テレビは明らかに出版ではない。

21条に関していえば、「言論」あるいは「その他一切の表現」の自由というところに含められなければならないということになる。
しかし「報道」と「言論・表現」とは一部重なるところはあるにせよ、明らかに大きな乖離がある。報道は情報の伝達であり、それを媒介するものである。
一方、「言論・表現」とは自己表出である。「報道の自由」という概念を全面的に憲法21条に依拠することは難しそうである。とくにテレビにおいてはなおさらである。

ついでながら、「知る権利」についても、一般的にその根拠を21条に求めているようだが、むしろ「参政権」「国民主権」こそがその根拠であると考えるべきであろう。

「報道の自由」は、当然のように憲法で認められた権利ではないのである。
「報道の自由」は、社会的要請があって、そして「知る権利」に応える場合にこそ認められるものである。
「報道の自由・自由な報道」とは、社会が求め、守るべき価値があると認められて初めて正当性を持つことになる。

「報道機関」に対する社会的要請とはなにか?一つは真実を伝えることである。そしてもう一つは権力の監視・抑制である。

この二つを条件として初めて「報道機関」は守られなければならない存在になる。権力は鳩山・小沢の側にある、というような言い方は詭弁に過ぎない。憲法によって与えられた権力をもって小沢が戦いを挑んでいるのは何か?憲法の裏側で構築された巨大な権力機構ではないか。政・官・財の癒着の中で、国民の目には見えない形で根を張り巡らしている得体の知れない力ではないか。そして「報道機関」は明らかに、この「得体の知れない複合権力機構」の一部になっている。このような「報道機関」に「報道の自由」など叫ぶ権利も資格もない。

「報道の自由」と切っても切れない関係にあるのが「取材源の秘匿」である。これは情報提供者のプライバシー、人権保護のためだけに認められる。これ以外に、どんな場合に「情報源の秘匿」が正当化されるのか?

国家機密の保持というのは理由にならない。国家機密を漏らし、それが報道されてしまえば、最早それは国家機密ではなくなっている。機密保持を名目に情報源を秘匿することは矛盾である。

正当化されるのは、メディアがその情報の真実性を確信し、かつ国民の知る権利に応えるだけの価値があり、公共の利益にかない、匿名でなければその情報が得られない場合だけであろう。
-------------------------------------2に続く
 
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