共同体社会の実現
224534 『必要か否か』の判断があらゆる場面でなされていく
 
西村真治 ( 43 滋賀 建築設計 ) 10/01/18 AM03 【印刷用へ
>この『必要か否か』という判断機能は、存在(本能・共認・観念)を貫く、極めて基底的な地平にある判断機能である。あるいは、全ての生物に備わっている不可欠の生存機能であると云っても良い。mg:33995

2002年にこの投稿がされている。その後の
2006年“もったいない”リンクという言葉に代表されるように、必要でないものにお金をかけないという“節約”意識の高まり、さらに1昨年前のリーマンショック後、経済は悪化し、直接的な外圧状況としても“節約”⇔『必要か否か』という意識はかなり顕在化してきているのではないだろうか?

しかし、一方でお金をどう使うか?どう使えば有効であるか、さらには、必要なものにはお金をかける(使っていく)という意識にまでは、まだ向かえていないのではないだろうか?

『必要か否か』の判断は、まだまだ消費の場面で使われることが多いが、“不可欠な生存機能”である以上あらゆる場面に適用し、生産の場面でも無駄を省くと同時に必要なものにはお金や人手(人・時間)をかけていくことにも繋がる。

本当に必要とされている生産活動の内の一つが、みんなが求めている“答え”を紡ぎ出していく“認識形成の場=認識形成サイト”であり、評価=人数を獲得していくと同時に、現存する評価指標である『お金』を得る=事業化出来るかどうかが、さらに参加者=人数を獲得していく上でも重要になってくる。
 
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