若者達の集まりが、どうやら従来とはだいぶ変わってきている。
例えば、大学のサークル。
活気があるのは、ダンスサークル。どこもかしこも、本気で踊っている。
非常にストイックなように見えるが、充足度も高そう。
まるで、始原人類の歩行訓練の一貫でもあった「まつり場」そのものだ。
体感共認という、深い共認充足の一つの様式が、収束不全からの突破口としての流れを生み出している事例であろう。
また、今日のサロンに参加された学生は、まだ2年生であるが「就職活動支援サークル」を立ち上げている。目先の不況感を感じ取り、このままではヤバイ、どーする?という危機共認が、集まりを形成している。
一見、焦りの顕在化でもあるが、この動きにはもっと深いものがありそうだ。
私権時代の就職活動は、受験⇒就職と一貫して私権獲得への道であり、周りに関係なく自分が内定を取れれば良い、という世界であった。内定が決まれば、それが市場社会の枠組みにおいて上から何番目の企業であるか?だけが関心事。
しかし、今やそんなものは通用しない。流行の業界は必ず廃れる。しかも、予想以上に短期間に。いずれ訪れるであろう、市場構造(ドル一極支配体制)の崩壊をも予測させるこの状況下において、一人ではどうにもならない事態である事を、明確に若者達が認識し始めているのだ。
先のダンスサークルの活況とはまた様相は異なるが、いずれもイメージされるのは『源初の社会』だ。既存の枠組みには可能性が感じられない。だからこそ、自分達で集まって、ゼロから場の構築を試みる。
当然、集まったからには、次は答えの探索(認識収束)へと進んでいく。
なるほど、認識収束という流れは、既存の枠組みからでは無く、新しい場の構築から生まれる流れなんだ! |
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