418「闘争と生殖の包摂@」より
闘争と生殖の包摂を妨げる意識
○家庭を絶対不可侵な領域として守ろうとする意識
○家庭から圧力を排除しようとする意識
○家庭内に囲い込んでおこうとする意識
○自分が豊かになればいいという意識
この投稿から8年が経過して、今や最後の砦である家庭の私権も放棄し、個人の自我も衰弱しつつある。
9/23に行われた「なんでや劇場」で議論のされた内容
ブログ「日本を守るのに右も左もない」なんでや劇場レポートB「自我⇒否定⇒私権意識の成立構造〜自我の原点は個人自我ではなく集団自我」
リンクより
抜粋引用********************************************************
認識の転換が必要である。
これまで自我は個人と一体であると考えてきたが、それは間違いではないか。
集団の自我(私権)こそ、自我(私権)の出発点ではないのか。
個人発の自我が集団に蔓延したのではなく、まず集団自我(私権)が生まれ、それが個人に転写され、個人の自我(私権)が生まれたのではないか。
以上を踏まえて、‘70年以降の私権の衰弱過程を捉え返すと次のようになる。
‘70年以前の貧困な時代には、国家(民族)挙げて豊かさ⇒私権獲得に邁進していたが、
‘70年豊かさが実現→国家(民族)私権が衰弱し、
バブル崩壊を契機とする‘95年企業私権の衰弱(企業は利益追求の主体だが、これ以上の利益追求を断念した)、
そして現在起こっているのは、最後の集団である家庭の私権の放棄(これ以上追求する気がなくなる)ではないか。だから「もったいない」節約意識が高まったのだと考えられる。
そして、この流れは個人私権の崩壊→否定の空中分解→個人自我の衰弱に向かう。
☆個人自我の消滅はいつごろ、どのようにして実現するのか?
個人自我は前門の虎(私権の衰弱)と後門の狼(充足基調)に立ちふさがる。
最後、個人自我に止めを刺すのは、おそらく女たちによる充足基調ではないだろうか。
引用ここまで*****************************************************
「集団の自我(私権)こそ、自我(私権)の出発点ではないのか。」という認識転換は重要である。
不可侵であった家庭の私権(自我)が8年間の間にあっというまに衰弱した。頑固そうに見えた価値対立も国家・集団の私権衰弱とともに少数派を残すのみに成っている。
個人自我の消滅も「私権衰弱」と「充足基調」の狭間に押し込められて封印されるのも時間の問題である。 |
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