>しかし大衆的には、生命力を失った近代観念はあっけなく見捨てられ、’70年以降、思想に対する無関心が一気に蔓延してゆく。そして’90年、社会主義の破綻とバブルの崩壊によって、遂に誤ったor無力な「構造認識」に対する不信が顕在化し、拒絶視されるに至った。
日本の戦後から高度経済成長期の貧困の時代を通じて、人々(大衆)が思想を支持したのは、あくまでも組合運動や人権などの権利運動の為(共産主義や個人主義)だったり、もっと単純に大学へ行く為に必要だったからだと思います。であるからこそ、思想に対する理解や追及も程ほどに自らの生存課題に都合よく切り取って役立てていたとは言えるでしょう。
しかし、そうやって思想や理論の追求は、学者や知識階級の専任事項となり、そこでは身分が保証されて生存課題(=圧力)から距離を置いた彼らが、大衆の役に立たない「仕事」を(貧困が消滅した現代でも)延々と行なってきたと総括できるのではないでしょうか。
今やマルクスもデカルトも語る人など無く、既に思想は死滅したと言っても良いように思います。しかし、大学と言う一部の機関や知識層では、まだそうした理論や研究が生き残り続けていて、何かあるとマスコミに出てきて大層にコメントなどします。そのときの大衆の意識は、「専門の先生の言うことだから」と半ば無意識に受け入れているのだろうと思いますが、これなどは無関心ゆえの放置に近い極めて消極的な肯定とも言えるでしょうし、同時に大した話ではない、とも思う人も少なくないでしょう。結果として大した評価も受けないと同時に失望や非難もさほど生起していない、ということかもしれません。
大事なことは、そうした思想や理論のそれぞれが、どれほど人々の役に立ったかを検証し、役に立たないとしたらどうしたら良いか?を既存の思想に頼らずに思考していくことだと思いますし、役に立つ=充足するための理論こそが必要、ということだろうと思います。 |
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