マスコミ・ネット
197975 田中角栄のつくり上げた放送・新聞の歴史@
 
リンゴヨーグルト ( 20代 ) 09/01/22 AM10 【印刷用へ
現在と未来を考える上で、歴史という事実を振り返ることは、重要である。
マスコミの行く末を押さえる意味で、戦後を象徴する放送・新聞支配の基礎をつくり上げた田中角栄の足跡に注目したい。
その歴史をぜひ紹介します。

<以下引用スタート>
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全てを疑え!! MAMO’s Site リンクより

『大量免許を実現した「大臣決定」』

 田中角栄のテレビに対する最大の贈物は、角栄が郵政大臣になってすぐさま着手した放送局の大量免許交付である。田中は1957年7月10日、岸内閣の改造人事で郵政大臣に就任している。初当選から10年目。39歳での入閣は戦後最年少で、明治の尾崎行雄以来という30代の大臣誕生だった。

 NHKがテレビ放送を開始したのは53年2月。初の民放である日本テレビの開局は同年8月。田中が大臣になったとき運営されていたテレビ局は、NHKが11局、民放が日テレ、ラジオ東京(TBS)、北海道放送、中部日本放送、大阪テレビの5局にすぎなかった。フジやNETには予備免許が下りていたが、まだ放送は始まっていない。

 しかし、テレビの受信契約数は、56年6月20万、11月30万、57年6月50万と着実に増え続けていた。先行局が活況にわくのを見て、全国各地から郵政大臣に放送局の免許申請が殺到する。免許問題は歴代郵政相の懸案事項だった。

 これに対して、郵政省は電波監理局を中心として一括大量免許に慎重な立場を取った。松田郵政相から寺尾郵政相(田中の次)まで電波監理局長を務めた浜田成徳は、田中角栄に「テレビ局が全国にできれば家電・電子工業界に大きなプラスとなる」と吹き込んだ人物だといわれている。しかし当時は「技術的にも経営的にも時期尚早」というのが郵政の立場だった。その郵政を、田中は34社の大量免許へと動かしたのである。

 田中は「歴代郵政大臣回顧録」(逓信研究会)で次のように書いている。

「ある朝、登庁したら大きな大臣用の机の上に部厚い書類がのせられていたので荘電波監理局次長を呼んで『結論はどうなんだ』とただしたら『たくさん理由は書いてありますが結論はノーです』と答えた。

 私は、早速、浅野文書課長を呼んで『事務当局はダメだといってきたが私は許可するつもりだ。手続きについてはどういう手順をとればよいか』とただしたら同君の答えは簡明直截であった。

『大臣の決定は即ちこれ法律と同じです』

 私は浅野文書課長と入れ違いに小野次官を呼んだ。やがて小野次官がやってきたので、『電波の事務当局から一括免許に反対という書類を持ってきたのだが、あんたはどう思うか、自分は日本の将来の電波に重大な歴史をつくるときだと考えている。また全国的混乱には終止符をうつチャンスだと思っているのだが……』

 小野次官は冷静な人だが『それは大臣のご決心次第です』と明快に答えてくれたので部厚い書類の表紙(係官、課長、局長と印鑑の朱で赤くなっている)全面に赤いペンで大きな×印を書いてから、この表紙だけ『本件許可しかるべし』と取り換えて欲しい、と依頼した」

 文書課長の「大臣決定これ法律」というアドバイスがふるっている。今なら、国会も法律も無視した、官僚にあるまじき無茶苦茶な発言と批判されるだろうが、郵政省にあってはその通りという面が強い。

 浅野課長とは後のフジテレビ会長・浅野賢澄、小野次官とは後のNHK会長・小野吉郎である。

『角栄流の一本化調整』

 大臣の裁量はここまでで、あとは官僚任せというなら、後に番記者に対して「郵政大臣の時から、俺は……」と田中が恫喝することもなかっただろう。だが、田中のやり方は違っていた。再び「回顧録」を引こう。

「土曜と日曜の二日間に開局申請者全部を郵政本省大臣室に呼び出すように指示しておいたので、全国各地からえらい人がいっぱい集まった。全国文化人大会のような観があった。各申請者には一五分か二〇分ずつ折衝に当たった。

『申請者はたくさんおられるが、みなさん一緒になって新会社をつくって欲しい。新会社の代表者は――申請代表の某氏とする。A申請人の持ち株は―%、B申請人は―%、C申請人は―%とする。AとBからは代表権を持つ取締役各一名、CとDは取締役各一名、E代表は監査役一名』という形式で懇談というより郵政大臣案の申し渡しである」

 本人の回顧録だから、信用しにくい点もある。これではたった2日ですべてが済んでしまったようにも受け取れる。実際には、こういう日が何日も、何週間も続いたようだ。

 だが、懇談よりも大臣案申し渡しというのはその通りだった。田中は陳情を受ける際、イエス(実現可)なら赤ペンで、ノー(不可能)なら青ペンでメモしたという。このときも、どの会社とどの会社を合併させ、持ち株比率はいくらずつで、取締役構成はどうと、赤と青の鉛筆を使って自ら書き込み、処理していったのである。

 放送局の免許が以上のような手続きをへて認可に至るというのは、非常におかしい。郵政大臣の恣意的な裁量――勝手な判断によって免許が下されているからだ。これでは、仮に大臣がある企業から特別な献金(別な言葉でいえば賄賂)を受け、その企業に有利なように取り計らっても、誰にも文句がいえないではないか。しかも、「言論報道機関」である放送局の経営の根幹に至る問題にまで、子細に介入している。

 東京第六局(現メトロポリタンテレビ、MXTV)ができるというとき、郵政省放送行政局の局長が暴走し、新局の出資比率や役員構成、番組構成に口を出して批判されたことは記憶に新しい。だが、田中の時代は大臣自らがおおっぴらに、社長はA社から出せ、B社の持ち株は何%だと一本化調整をやっていたのだ。こんな風にしてできあがった放送局が、たとえば放送法にいう「政治的公平」を貫けると思うほうがどうかしている、とすら思う。

 だが、回顧録を読めばわかるように、田中はこれを自分の手柄、自慢話として書いているのである。そして、申請者たちも、そういうものなのだとありがたく納得して、田中の裁量を受け入れた。

 なぜ申請者たちが納得したかといえば、第1に、田中が無理やりにでも一本化しなければ大量免許は下りないからである。第2に、強引な申し渡しに見える田中角栄の調整は、「実は誰もが恩を感じるような配慮がなされている」(立命館大学教授・松田浩)からである。つまり、それは「利害調整」という名の「利益誘導」だった。
<中略>
 免許も同じで、それは大臣の所有物でも何でもなく国民の財産なのだが、もらった人は角栄のことを一生忘れないというわけだ。
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Aにつづく
 
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